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 薔薇の使い



 少女はふっと目を覚ました。
 顔に触れる涼やかな風。窓を閉め忘れたのだろうか・・・

 空気が違うことに気が付く。まだ目覚めきらない五感がやっとその理由にたどり着く。

「いい香りがする・・・」

 甘く芳しい花の香り。何の花だろう・・・記憶の扉はまだ眠ったまま。

 ともかく窓を閉めようと起き上がり、少女はハッと立ちすくむ。
 窓辺に浮かぶ確かなシルエット。それは明らかに少年のもの。



「誰?」

 夜風が長い髪を揺らす。気だるい眠りの残り火は消え去り、少女の目に鋭い光が満ちていく。

「・・・驚いた、いい目をしてるな。いまどき珍しい。」

 ちっとも驚いた様子もなく、少年は少女を見る。その目が月明かりをはじいて銀色に輝く。風がその後で一つに束ねた髪を揺らす。詰襟に似た濃い灰色の上下に身を包んだ少年は窓辺から一歩、踏み出した。

「誰なの?人を呼ぶわよ!」
「それは構わないが・・・変に思われるのはそっちだぜ。」
「はあ?誤魔化そうったって・・・」
「ほら、床を見てみろ。」

 言われて少女は視線を下に落とす。月明かりがぼんやりと物陰を映し出す。カーテンがゆらゆらと揺れる影を作り出し・・・少女は唐突に悟る。

「影が・・・あんたの影がない!?」
「そう・・・本当なら人の目にも見えない。わずかな例外を除いて。」

 少女は息を飲む。

「あんたは・・・一体何?・・・幽霊?」

 背筋が粟立つ。その様子に少年は苦笑した。まだ若い、少女と変わらない年頃のあどけなささえ感じられる笑顔。

「そんなものが怖いのか?俺を見明かす目を持ってながら。」
「ち、違うの?」
「俺は死者じゃないよ・・・その同音異義語だ。」
「ドウオンイギ?・・・発音は一緒っていう意味ね。とすると・・・」
「使者。使いの者だ。」

 少年はゆっくりと片手を差し出した。その手には一輪の薔薇。あらゆる彩りを拒むような曇りなき純白に輝く。

「この香りだったんだ・・・」
「そう、この薔薇は白の中の白・・・『永遠へのいざない』さ。」
「そんな品種、あったかしら?」
「もちろん無いさ。これはこの世ならぬ薔薇。人の子が手に出来るのは永遠への旅立ちの時だけ。」

 何とも形容できぬ奇妙な微笑みが少年の顔に浮かぶ。

「あんた、まさか・・・」
「いいや、死神(タナトス)たちは冥界の門で待っている。俺は使者、旅立つ魂の案内人。本業は別だ・・・眠れる魂たちを幽境にいざなう者、それが俺、ヒュプノス。」
「眠りの神(ヒュプノス)?」
「ああ・・・お前の魂も何度も案内したよ。人はそれを夢、と呼んでいるが。」

 ヒュプノスはすっと薔薇を持っていない方の手で、さっきまで少女が寝ていたベッドを指す。

「今だってそうさ。」

 思わず振り向いた少女が見たもの・・・ベッドの上で静かに眠る自分の姿。

「これは・・・夢なの?」
「今のところは同じようなものだ。一つ違うのはお前がもうこの体に戻らないこと。」

 衝撃が少女の体を走り抜ける。

「そんな・・・冗談はやめてよ!どうしてあたしが死ななきゃならないの!」
「その若さで、さっきまで元気いっぱいだったのに?」

 やれやれといった感じでヒュプノスは両掌を天に向ける。

「理由は問題じゃない。お前はこれから昏睡の末に・・・時間を止める。」
「・・・本当なの?」
「運が悪かったな。お前の寿命はまだだったんだが、運命の女神(フェイト)の揺らぎの籤がお前に当たってしまった。」
「何よ、それ・・・」
「偶然も無ければこの世界は硬直する。たまに信じられないような偶然で生き延びる者もいるだろう?その逆もあるということだ。」
「だからと言って、どうしてあたしなの!」

 花なら蕾・・・これから美しく咲き初めようという身を少女は震わす。

「運が悪かったということだ。・・・俺なら選ばないがな、これから山ほど夢の花を幽境に咲かせてくれそうな魂を。」

 ヒュプノスはやや残念そうに少女を見やる。

「嫌よ、あたしは自分の体に・・・!?」

 眠れる自分を起こそうとした手はすっと布団を突き抜けた。手応えもなく。

「な・・・に?」
「戻れないって言っただろう。それに今のお前は魂だけ、物に触れることは出来ないんだ。」

 今度こそ項垂れる少女に、ヒュプノスは宥めるように言った。

「すぐに冥界に連れてくわけじゃない。昏睡している間はまだこっちにいる決まりだからな。・・・ああ、幽境で夢を見るのもありだ。やりたいこと、見たいこと・・・望むことがあれば言ってみろ。」
「まるで死刑執行前の罪人に言うみたいね。」
「もう少しマシさ。ほら」

 パチリ、と指が鳴る。

「彼らにはこんなことが出来る案内人はいないからな。」

 少女は一瞬それまでの絶望を忘れた。足元には宝石のように街の灯がきらめいていた。




「さて、お望みは何かな?まだ時間はあるし、あわてなくてもいい。」
「あとどれだけ残ってるの・・・あたしの時間。」
「2〜3日といったところだ。ま、出来るだけ引き延ばししてやるよ、催促が来るだろうが。・・・というわけでこれからフリータイムだ。」

 ヒュプノスのあっけらかんとした調子に、少女はまだ戸惑いながらもひとまず気持ちを和らげた。

「本当にどこにでも行けるの?あたし、行きたいところがいっぱいあるの。それから見たいところも。」
「そうそう、そうこなくちゃな。いいとも、どこへ行きたい?」
「外国・・・でも、その前に寄ってきたいところがあるの。」
「家族なら最後に会わせてやるよ。友人か?今の時間では眠っているぞ・・・まあ、夢の中で引き合わせてやることは出来るが。」
「ううん、眠ってる方がいい・・・」
「で、どこなんだ?」



 窓辺にたたずむ二つの影。その目の前には静かに眠る一人の青年。

「・・・これは幽境に行ってるな。向こうで会わせてやろうか?」
「いい」
「だってお前の想い人なんだろう?」
「いいの、どうせ諦めるつもりだったんだから。」
「なるほどな・・・彼の運命の相手は確かにお前じゃない。」
「わかるの?」

 少女はさっと顔を上げる。

「わかるさ、そうでないと本業に差し支える。・・・ほら、夢で将来の相手に会った、なんて話があるだろう?」
「じゃあ、もしかして・・・あたしの、その・・・」
「ああ、お前にも相手はいる。その予定だった。」

 ヒュプノスの言葉に、少女は大きく目を見開く。

「そっか、でもあたしはもう・・・いなくなっちゃうんだよね。どうするのかな、その人・・・」
「フェイトたちがどうにかするだろう。あるいはもう決めないかもしれないが。」
「それって運命の人がいないままってこと?」
「そういうケースもある。」
「悲しいよ、そんなこと・・・可哀想だよ。」

 瞳を翳らす少女に、ヒュプノスは首をすくめてみせる。

「おいおい、お前が可哀想がってどうする?」
「だって、一生運命の人にめぐり会えないなんて、あんまりだよ。あたしだって・・・会いたかった。」
「なら会いに行くか?」
「えっ」

 ヒュプノスはさっと窓の外に飛び出す。少女もあわてて続く。

「一つ種明かししてやるよ・・・俺のこの姿、実は本当の姿じゃない。仮なんだ。元々人間の目にわかるような姿は持ってないから仕方ないんだが。で・・・」

 ヒュプノスはさっと少女の前に浮かんだ。その距離の近さに少女が引きかけるくらいに。

「よく見ろよ、この顔・・・お前の運命の相手のものだ。」
「!?」

 少女は思わずヒュプノスの顔をまじまじと見た。まだあどけなさが目立つが、少年らしい端整で爽やかな顔立ち。

「悪くはないだろ?」
「ど、どうして・・・」
「よくリクエストがあるんだ。運命の人に会いたいとか思い出を作りたいとか。お前くらいの年ならそれも不思議じゃない。・・・本当の恋を知らないで逝くのだから。」
「本当の恋・・・」
「ああ、憧れでも同情でも憐れみでもない、本物の恋だ。お前、まだだろう。」
「そんなの、どうしてわかるのよ!」
「まだ幽境に咲かせてないからさ・・・『恋を知り初めし心』という花を。」
「で、でもあたしは・・・」
「さっきのやつなら、『幼き憧憬』だ・・・ほら、こんな花。」

 ヒュプノスの手にふっと一輪の花が現れる。優しいパステルピンクの可愛らしい小花。

「幽境にお前はいっぱいこれを咲かせてくれたよ。・・・だから楽しみだった、それが『夢見る恋心』や『誓いの絆』に変わる日が。フェイトたちの籤は野暮だから、そんな楽しみなんかちっともお構いなしときたもんだ。」

 少女はじっと花を見つめた。その中に今までの想いを見ているかのように。

「あの・・・」
「ん?」
「会わせて・・・もらえる?」

 おずおずとした口調。ヒュプノスは柔らかくうなづいた。

「いいとも。ただし向こうにはお前の姿は見えないが。」
「構わない。・・・どんな人か知りたいだけだから。」
「ふむ、まだ寝てるようだ・・・起きるまで少し観光でもするか。外国なら昼間だからな。」
「うん」

 パチンと指が鳴る音。少女の目の前に、見たことも無い町並みが広がった。





「お待たせしたな。」

 ヒュプノスは少女を振り返る。夜明け直前の静かな山並みが二人の足元に広がる。

「もうじき曙(エオス)が来るが、お前にとって時間は黄金より貴重だ。・・・観光にも身が入ってなかったしな。早くお望みをかなえてやらないと。」

 苦笑するヒュプノスに、少女は赤くなって横を向いてみせる。

「そろそろお出ましだ。ちょっと細工して早目に目が覚めるようにしておいた。ほら・・・」

 細い山道の一点が指差される。少女は実体無き鼓動を抑え、その方向を見た。

「本当に・・・そっくり。」

 わずかに明るんだ空の下を身軽に駆けて行く姿。一つに束ねた髪が背で揺れる。着ているのがよれよれな道着ということ以外、側にいるヒュプノスに瓜二つ。

「それはそうさ、こっちは姿を借りてるんだから。」
「彼が・・・あたしの?」
「ああ、この春お前と出会うはずだった。それで・・・いや、言っても仕方がない。」
「どうなっちゃうの、彼は?」
「未定だ。お前がこっちにいる間は縁を切るわけにはいかないからな。だから今はまだ彼はお前と運命を分かつ者。」

 ヒュプノスはすっと手を振った。その手に咲き出でるあでやかな薔薇。

「『想い人に捧ぐ薔薇』だ。・・・どうせ使者になるなら、こちらの花を渡したかったな。これを受け取った者はその子供時代を終える。そう、本物の恋が始まるんだ。」

 薔薇に囁くようなヒュプノスの言葉。少女は胸苦しさのようなものを覚え、眼下の少年に目を移した。

「本物の恋・・・あたしは・・・」

 少年は明けやらぬ朝の清冽な空気の中、颯爽と走っていく。少女の苦しみに全く気づくことなく。



「・・・会うべきじゃなかった。」
「どうして?」

 苦しげに言う少女に、ヒュプノスはおや、とばかりに首を傾げてみせる。

「お望みなら彼に眠ってもらって幽境で会わせてやる。夢の世界で存分に恋を語らうも良し・・・そうそう、未練を心配する必要は無い。忘却の川(レテ)を渡れば、全てを忘れてしまうから。」
「そんなこと、したくない。あたしは恋を知らずに逝くし、彼も・・・あたしのことを知らずに・・・」
「ああ、待った・・・そういうことか、これは珍しいケースだ。」
「?」
「うん、半端じゃない縁が結び付けられてるな。なるほど・・・」
「何が?」
「縁自身が嫌がってるんだよ、切られるのを・・・だから苦しくもなるのさ。はっきりした自覚はないだろうが。とすると厄介だな、後始末が・・・俺の仕事じゃないけど。」

 少女は意味ありげな言葉に戸惑う。ヒュプノスはふっと考えに沈んだ。

「これも揺らぎのうちかもしれんな。さて、と・・・」

 奇妙なくらいさっぱりとした笑顔を少女に向けてヒュプノスは言った。

「彼と一緒にいたくないか?」

 先ほどのあでやかな薔薇が少年を指し示す。無意識に少女の頭がこくっと下がった。




「どうするの?」
「ん?簡単なことさ。」

 少年からつかず離れずの空中に浮かぶ二人。渓流沿いの崖を身軽に降りていく姿がぼんやりと見える。まだ薄暗いが、少年にとっては問題ではないらしい。

「一緒に行くんだよ。」

 パチっと指が鳴る。途端に少年の足元が崩れた。少女が息を飲む。崖下に落ちながらも、少年は空中で体を捻り、体勢を整えた。向かう先は渓流の中。それほどきつい流れでも、深くもない。派手な水しぶきが上がった。

「ふ〜ん、やるじゃないか。」
「ちょっと、何すんのよ!!」
「離れたくないんだろう?なら連れてくしかない。」
「あたしはそんなつもりじゃ・・・」
「おや、これはしぶとい。」

 少女の抗議を物ともせず、ヒュプノスは速い流れを力強く横切る少年の姿を見て興味深そうに笑った。

「それじゃこういうのはどうかな?」

 二回指が鳴らされる。それまでしっかりとした足取りで川を進んでいた少年が、いきなり流れの中に転げ込む。

「な、何よあれ!?」

 少女の目に映ったのは、流れの中から透き通った長い髪の女性たちが現れ、少年の体を水の中へ引っ張り込もうとしている悪夢のような光景。

「あれは水妖たちだ・・・普通の人間にはどうすることも出来ない。実体が無いんだから。」
「やめて、やめさせて!」
「お前もわからんやつだな、辛がるからあいつも連れてってやるっていうのに。」
「道連れになんかしたくない!」
「といってもなあ・・・」

 少女は下を見て愕然とする。少年の姿は水の中に消えかけていた。

「ほら、もう遅い。」
「冗談じゃないわ!」

 特にいい考えがあったわけではないが、少女はさっと身を翻して水妖たちのさざめく水面に一直線に向かった。水妖たちは少女の接近を阻もうとしたが、その熱い気に気圧されて少年から離れていった。

「しっかりして!」

 動かない少年に伸ばした手は無情にもその体を突き抜ける。

「そんな・・・」
「仕方ないな。」

 上でそんな声がしたかと思うと、いきなり体に冷たい水の感覚が押し寄せてきた。

「今だけ実体化させてやるよ。物好きだな、助けてやるなんて。」

 少女は少年の体を肩に担いで立ち上がった。深さは大したものではない。歩いて岸までたどり着ける。

「しっかりして、もう大丈夫だから・・・」

 今少年が目を覚ましたらどうなるのだろう・・・気になったがそれよりも岸に上がるほうが先と、少女は速い流れに注意して歩いていった。



「しっかり!・・・ねえ、どうしたの!」

 岸辺の草地に少年を寝かせ、少女はその体を揺すぶった。

「あんな短い間に溺れるわけないのに。・・・ねえっ」

 すっかり血の気の引いた顔に、少女は背筋に冷たいものを覚える。ふと思い立って少年の口元に手をやる。

「息・・・してない!?」

 あわてて胸に耳を寄せると、あるはずの音も聞こえない。

「そんな!」

 見る間に少年の顔は白く、そして青くなっていく。

「はは〜ん」
「これは何なのよ!」
「水妖のやつ、久々の獲物だからって・・・水底の詩を歌ったな。」
「水底の詩?」
「溺死者たちに捧げる歌さ。それを聞いた者の心の臓は止まる・・・水の底で冷たい眠りにつくように。」
「助けられないの?彼は死ななくてもいいんでしょ・・・それなら生きててほしい、本物の恋だってしてほしい・・・あたしの分まで。」

 まだ若すぎるしなやかな、そして逞しくなる一歩手前の姿。

 めぐり会えたなら、きっと恋しただろう。それはもう見果てぬ夢に過ぎないけれども。

「・・・心からの望みのようだな。本当に奇特だよ、お前って。」

 ヒュプノスは両手を合わせてふっと息を吹きかけた。辺りに芳しい香りが満ちる。

「この蜜を飲ませてやるといい。」

 その手には金褐色にきらめく炎のような薔薇があった。


 少女は薔薇を手にすると、それを少年の口元で傾ける。流れ出る金色の蜜。だが・・・

「お願い、飲んで・・・」

 紫色になった唇の上を蜜は素通りするばかり。少女は思い切って口をこじ開けて流し込もうとするが、これまたちゃんと入っていかない。

「何をしている?急がないと手遅れになるぞ。」
「わかってるわよ!」

 焦りばかり募ってうまい方法が思い付かない。少女は恨めしそうに薔薇と少年を見比べた。

「ギブアップか・・・まあ、その方が淋しくなくていいだろう。」

 ヒュプノスがなだめるように声をかける。

「お前たちは引き離すには惜しい、似合いの一対だからな。タナトスたちに言って一緒の奥津城で眠れるようにしてやるよ。死を前にした恋人たちなら誰しも夢見る、口づけにも似た甘い永遠の眠りだ・・・」

 少女はハッと手元の薔薇を見た。そしてそれをぐっと傾けた。自分の和えやかな唇へと。



「ふう」

 ホッと吐息がもれる。少女は柔らかな表情で眠れる少年を見た。その顔には赤みが差し、健やかな呼吸がその口からもれる。

「大胆なことを・・・お前、初めてだったんだろ?」
「人助けよ!」

 にやにや笑うヒュプノスに、少女はつんと横を向いた。

「いいじゃないか、結果的にはこの世の名残に良い思い出が出来たというもの・・・あ」

 ヒュプノスの声色が変わった。

「今度は何よ?」
「しまった、俺としたことが・・・」

 マズったとばかりに頭をかくヒュプノスに、少女は怪訝な顔をした。

「その、お前・・・あの薔薇の蜜、飲んじまったよな?」
「え、ええ・・・あの時少しだけ。」

 ちょっと顔を赤らめて少女は答えた。

「となると・・・やべ、どやされちまうぞこりゃ。」
「だから何なのよ?」
「そのだな、お前に渡した薔薇は・・・わかるだろ?」
「生き返らせるためのでしょ・・・あ!」
「そういうことだ。」

 ヒュプノスは苦笑を浮かべた。

「これでお前を連れてくわけにはいかなくなっちまった。」
「じゃあ、あたし・・・」
「ああ、寿命まできっちり生きろよ・・・そいつとな。」

 少女は少年を見た。その目に浮かぶ憧れのきらめき。胸にはいつか灯る未だ知らぬ恋の微かなうずき。

「さあて、帰るか・・・今夜のことは夢の映し鏡でほとんど忘れるようにするからな。覚えられてるとややこしいことになる。」
「うん」

 ふわっと体が浮き上がる。また実体を無くした状態に戻ったらしい。今一度少女は少年を振り返った。

「いつかまたね、その時には・・・」

 風が囁きを乗せて過ぎていく。少年の顔がふっと微笑んだように見えた。





 曙光の中、ふわりと朝風とたわむれる姿。その手に輝く虹色の薔薇。

「とんだ越権行為だわね、ヒュプノス。」

 金色の光の中から長い髪をたなびかせた少女が現れ、呆れたようにヒュプノスを見た。

「たまにはこういうこともあるさ。」
「どうかしら・・・その手の薔薇は何よ、『羽より軽き心』なんて確信犯だって証拠じゃないの。」
「で、フェイトの末妹自らお出ましか・・・運命を絶つ者(クローソー)としちゃ面白くはないな。」
「あたしを冷血女みたいに言わないで。」
「へーへー、職務だから、だろ。お前は真面目一本槍だからな・・・ところでその姿は何だ?」

 目の前には先ほど自分の体に帰した少女そっくりな姿。

「あんたに合わせてあげたのよ。・・・結構いい線行ってるしね。あと何年もしないうちに、あんたの薔薇に負けないくらいになるわ。」
「だろう?勿体無いじゃないか、今摘んだら。」
「白状したわね。・・・ま、今回は大目に見るわ。実のところ厄介な子を選んじゃったって姉さんたちがね・・・いろんな運命の糸が絡んでいるのよ、この子には。」
「みたいだな。俺が姿を借りたこいつにしても半端じゃない人生を辿るだろう。しばらく楽しめそうだ。」
「あんたはお気楽でいいわね。」
「そうでもないさ。」

 ヒュプノスは手を振った。虹色の薔薇が消える。

「クロト、お前に夢はあるか?」
「夢、ねえ・・・願望ならあるわ。・・・無情な死神のように言われなくなること。」
「それも立派な夢さ。」
「で、あんたは?夢の大将。」
「俺の夢は・・・夢を見ること、さ。」
「そうね・・・そうだった。あんたは夢を見れない、夢を司るのに。」
「んな顔をするなって。結構この仕事は楽しんでやってるんだ。」
「ふふっ、その楽天的なところがあんたのいいところだわ。ね・・・」
「まだ何かあるのか?」
「聞きたいことがあるの。・・・どうしてよりにもよってあの薔薇を渡したわけ?『命の輝き』の蜜で充分だったでしょうに。」
「ああ、これか・・・」

 手を合わせて息を吹き込む。たちまち萌え出でる炎紅色の薔薇。

「いつ見てもきれいね・・・その『アムールの炎』は。でもそんなのを使って、あの子たちには強すぎよ。」
「そうかな?ふさわしいと思ったんだが・・・あれだけの縁で結ばれた者たちには。」
「気の毒に、持て余すでしょうねえ・・・太陽(アポロン)よりも熱き恋情の炎は。それもあんた自ら神気を吹き込んだ薔薇ときては。」
「まあな。だからあふれた想いはこっちで引き取るよ。幽境にたくさん咲かせてもらうとしよう。」
「あっきれた・・・最初っからそのつもりだったのね!」
「そう言うなって。ここしばらくこいつを咲かせてくれる魂が無くてさ。命を賭けるほどの恋って今は流行らないのかね。」
「さあ・・・」

 朝まだきの涼やかな風が長い髪を吹きさらす。

「ねえ、この薔薇が咲いたら見に行ってもいい?」
「構わねえよ。その時は使いを送る。これを持たせてな・・・」

 すっとヒュプノスは薔薇を差し出した。

「俺の時間は終わり。暁に追っ払われないうちに退散するとしよう。じゃあな。」

 風のようにその姿は消えた。香り高い空気を残して。

「あんたにだってちゃんと夢はあるじゃないの。・・・あら、お目覚めのようね。」

 長い髪をたなびかせた少女が家の門から起きだした街へと走り出す。生き生きとした輝きが、常ならざる者の目にはっきりと映る。

「ちょっと恋の先取りしただけでこんなにも違うものかしら、人の子って。それに・・・」

 目を転じて映し出すはるか彼方の少年の姿。起き上がってとんだ災難だとびしょ濡れの上着を脱いで絞りながら、それでもその顔には不思議と明るさが見える。
 ふと口に手をやって、少年は何かを呟く。流れにかき消されたその言葉を、運命の女神はその曇りなき耳で確かに聞き届けた。

「そうよ、それは夢であって夢ではない。いつかあなたは彼女に出会う、そして命の限り愛していくのよ。まだ幼い魂にはわからないでしょうけど・・・」

 炎にも増して輝く薔薇をつと掲げ、虚空の中の女神は風に囁きかける。

「あなたたちの運命の糸を絶つ日が来ても、縁の糸は切らないわ。あたしたちにさえ夢を見せるような想いを絶ちたくないもの。・・・ふふっ、使いの薔薇が来る日が楽しみだわ。」




 end of the story

 written by "いなばRANA"





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