宿替

 指輪騒動から一週間が経った。
 のどかがあかねへあげてと乱馬へ依頼した指輪、もとい「薬箱」から起こったあの騒動から。
 兎に角、あの騒動は乱馬にとって迷惑至極であった。指輪と思っていた代物が単なる薬箱だったのだ。気の抜け方もかなりなもので、がっかりする反面、ホッとしたというのが正直な所かもしれない。
 あの騒動のおかげで得たものと言えば、再び天道家に厄介になるということだけだ。
 「婚約指輪」と勘違いした連中に執拗に追いまわされ、あげくの果てにのどかと住みだしたばかりの家を壊されてしまった。

 もし、あれが薬箱でなく指輪だったら今頃どうしていたのか。あかねとの仲は今一歩進展していたのだろうか。

 縁側から秋なずむ空を眺めながら乱馬はホッと溜息を吐いた。指輪として受け取った時のあかねの顔の輝きが脳裏をきらきらと過ぎる。
(可愛かったな…。あかねの奴。)
 ぼんやりと浮かんだ白い雲を目に追っていると背後で声がした。

「乱馬、おばさまが呼んでたわよ…。」
 あかねがひょいっと顔を出した。
「あ、ああ…。」
 乱馬は自分が心に描いたあかねの顔を現実に重ね合わせて、慌てて縁側から立ち上がった。と、バランスを崩しかけて庭先へと転落した。
「わたっ!」
 乱馬は思わずそう声をあげた。縁側の下の固い土が素足に触れた。
 あかねは、縁側から落ちた彼を物珍しそうに眺めて丸い目を瞬かせた。そして、くくっと笑い声をあげた。
「何だよ…。」
 ばつ悪そうに彼は無愛想な声を出してそれに答えた。己のドジ加減に顔は紅潮していたかもしれない。
「ドジねえ…。何に気を取られてたの?」
 あかねはころころと笑いながら乱馬をしげしげと眺めた。
「うるせえっ!それよか、なんだよ…。」
 乱馬はブスッと声を張り上げた。喧嘩も辞さねえぞというような物言いだった。
「おばさま、用があるみたいだったから早く行ってあげたほうがいいわよ。」
 あかねは明るくそんなことを口にした。
「わかったよっ!!」
「何、威張ってるのよ。」
 あかねは乱馬を見てくすっと笑った。
「おめえこそ、何笑ってるんだ?」
 乱馬が取って返すと、
「別に。」
 とあかねは返してきた。いつもならこの辺りで口喧嘩の一つもおっぱじめるのだろうが、あかねは今日はすこぶる機嫌が良さそうだった。
「兎に角、伝えたからね…。」
 そう言うと、鼻歌交じりに去っていった。

(おふくろの用事ってなんだろう…。)

 乱馬は上機嫌で去ったあかねを見送ると、さっさと縁側から落ちた身体を起こして砂を払った。


 暗い中央の廊下を抜けて、居室になっている二階へと上がった。
「オフクロ。」
 乱馬は部屋へ入ると声を掛けた。

「今日は天気も上場だし、日柄もいいから、お引越ししようかと思って。」
 のどかはニコニコしながら乱馬に言った。
「ひ、引越しぃ?」
 乱馬は素っ頓狂な声を張り上げた。
「引越しって、また天道家を出て行くのかよ…。」
 つい言葉が漏れた。
 のどかも相当に気まぐれな部分があるようだ。流石に早乙女姓を名乗るだけはある。この前、玄馬と乱馬を引き取ると言って天道家を後にしたばかりだ。結果的には直ぐに舞い戻る結果になったが、また、ここを出てゆこうと思ったのだろうか。
「その分だと乱馬はここを出て行きたくないみたいね…。」
 のどかは満面に笑みを浮かべて乱馬を眺めた。
「あ…。いや、べ、別に俺はあ…その…。どうだっていいんだけど…。」
 消え入りそうな語尾を引き摺りながら乱馬はそう答えた。明らかに動揺を隠せずにいる。
「それじゃあ、乱馬だけ出て行く?」
 のどかは少し意地悪そうに言い放った。
 乱馬はぐうの音も出ずに黙ってしまった。
「ほほほ…。冗談よ。良かった、乱馬がここに居たいのなら、決定ね。」
 のどかは後ろに控えていた玄馬に向かって目配せした。玄馬はパンダに返信しながらどんとそこに座っていた。
「決定って?」
 乱馬はきょとんと聞き返す。
「いえね…。早雲さんがずっと居てくれてもいいっておっしゃってくださって。いろいろ父さんと話し合ったんだけれど、甘えさせていただこうかと思ったのよ。」
 のどかはにこにこ微笑みながら息子を眺めた。
「あん?」
 乱馬は今一度母の顔をじっと見返した。
「でね、壊れた家から普段使いの調度品や身の回りのものを引き上げて来ようかと思って…。手伝ってくれるかしら?」
 
「も、もちろんっ!!」

 思わず乱馬は叫んでいた。それも嬉しそうに。 
 叫んだ後で、しまったと云わんばかりに付け加えた。
「オフクロがそうしたいって言うんだったら…。」
 明らかに彼の照れ隠しであった。本音では飛び上がりたいほど嬉しかった筈だ。
「じゃあ、ここまで大八車で運び込んでちょうだいな。わざわざ引越し屋さんを頼むほど荷物もないから。ね…。」
「ああ、任しとけっ!」
 乱馬はドンと胸を叩いた。
「あかねちゃんも、お手伝い二つ返事で引き受けてくれたわよ…。」
 のどかは息子をからかうようにそう答えた。
『しっかりやれよっ!後は頼んだぞっ!息子っ!!』
 後ろで玄馬パンダが看板を上げた。
「あなたも手伝うのよっ!!」
 のどかの顔がきらりと不気味な笑みを玄馬に投げつけた。顔は笑っているが目は笑っていない。
「ぱふぉぱふぉ〜!」『わっかりました、奥さん!』
 玄馬は慌ててそう看板を差し替えた。

 乱馬が壊れた早乙女家に行って見ると、先にあかねがかすみと共に来ていた。二人でいろいろ荷造りをしているまっ最中だった。
 器用に箱詰めをしてゆくかすみに比べると、明らかに不器用なあかねは、ダンボールと戯れているようにしか見えなかった。だが、乱馬にはそんな光景も微笑ましく映った。何より、あかねとまた同じ屋根の下に暮らせる幸せが彼を安らかにしていたのである。
「たく…。おめえは何やらせても不器用だな…。」
 そう言いながら添える手が自然と優しく動いた。
「うるさいわねえ…。手伝ってあげてるのよ!」
 あかねはそう憎まれ口を叩いたが、傍で器用に荷物を詰めてゆく乱馬を見てこれまた幸せをうに微笑んだ。
 調度品は貧乏武道家の家、そう多くはなかったが、衣料など結構細々としたものはたくさんあった。当面必要な分は勿論一緒に梱包するとして、食器などかさばる物は古物商などへと引き取ってもらうようだった。
 早乙女家は本格的に天道家へと移住を決め込んだらしい。
 せせこましく働きながらも、乱馬は上機嫌な自分が己でもおかしいくらいだった。
 
(またあかねと暮らせる。)
 
 それは何事にも勝る彼の喜びでもあった。
 傍で動き回るあかねを見詰める視線は自ずと柔らかくなっている。
 梱包作業は苦手なあかねだが、荷物を持ち運ぶ時はその本領を発揮した。
 とにかく、力だけは男並にあるあかねだ。ひょいっと持ち上げると大八車に積みにかかるでも、力は強くともあかねは女の子。何往復かするうちに息が切れてきた。
 何度目かについにすっ転びそうになったあかねを思わず庇っていた。
「たく…。少しは加減しろよな…。いくらおめえが馬鹿力でも、何度も運んでいたら疲れてくるだろ?こんな重いものは男の俺に任せておけばいいんだよっ!!」
 息切れしながらへばっているあかねを見ながら乱馬は上機嫌。
「それよか、くおらっ!クソ親父。さっきから軽いものしか運んでねえだろっ!てめーはよ…。少しは重いものも持ちやがれ。楽ばっかしやがってっ!!」
『わし、力ないひ弱いパンダ。』
 さっとあげた看板に思い切りにじり寄る。
「てめえ…。オフクロに後で言いつけてやろうか?」
 その言葉は玄馬にとっては何にも勝る脅し文句。
『お仕事、お仕事、楽しいな…。』
 諦めたようにあかねの手にしていた重い荷物を抱えあげる。
「たく…。あの怠け親父が…。」
 そう言いながらあかねを見やる。
 乱馬はへたりこんだあかねに手を差し出した。
「乱馬…。優しいんだ…。」
 あかねはにっこりとその手を取った。
「俺はいつだって優しいよっ!!今に始まったこっちゃねえっ!!」
 照れ隠しする乱馬。
 繋がる手と笑顔の眩しさと。そしてまた一緒に暮らせる嬉しさと。
 まだ熱気が残る初秋の陽射しに、二人、汗が滲み出す。

「さて…。お引越し、もう一分張り…。してくれよな…。相棒っ!」
「うん…。これからもよろしくねっ!乱馬っ!!」

 二人の汗がきらっと光った。笑顔も一緒に。
『さっさと働けよっ!そこの二人っ!!』
 玄馬がにやにやと笑いながら通り過ぎる。
「偉そうにっ!」
「全くねっ!」
 鮮やかな空の青さが微笑みながら働く皆を包み込む。
 一つ屋根の下。笑顔も愛情も全てまた。



お引越し小説
原題は「一つ屋根の下」でしたが「宿替」へ改題しました。
関西では引越しを「宿替」と表現することがあります。「やどがえ」ではなく「やどがい」と発音します。
なんとなく下町的な親しみがあって私は「引越し」よりも「宿替」の方が好きです。
作品はご覧のように原作36巻の後日譚として描きました。
RNR辺りに上がってるかもしれませんが、一応試作室扱いということで…。



(c)2012 Ichinose Keiko