猫踏んじゃった!(後編)
四、
どのくらい、神前と猫乱馬の異様な追いかけっこは続いたのだろうか。
神前は、必死で乱馬の攻撃から身をかわしていた。猫乱馬の攻撃は飛びかかりザマに仕掛けられてくる単純なものだったので、神前でも比較的かわしやすかったのだ。
ただ、普通の猫と違うことは、乱馬から繰り出されてくる拳の圧力で、周りの木や草が鰹節のように削られて行くことだった。一瞬でも気を抜くと、神前の身体も削り取られるのではないかと思われるような拳圧だった。
神前は何とか乱馬の攻撃を凌いでいたが、如何せん、普段運動などとは全く縁の無い生活を送っている。格闘家として日夜修行を積み重ねる乱馬とは基礎体力にも差がありすぎた。
持久力も体力も乱馬にかなう筈も無く、だんだん息があがり始めた。
…情けないな。
乱馬の攻撃を済んでのところでかわしていた神前は、肩で息をしながら己の脆弱さを呪った。
乱馬の方は、息があがるどころか、ますます攻撃にエンジンがかかり始めたようだった。
みなぎった体力を身体中に充満させ神前に迫ってくる。木々の上、庭先の石、屋根の上、所構わず身を翻せる脚力、瞬発力、持続力はさすがに鍛えぬかれた筋力の賜物だろう。
攻撃対象として当事者でなければ、感心こそすれ、逃げ惑う神前にはそんなもの、迷惑以外の何物でもない。
第一神前には、考え込む余裕すらなかった。
心臓だけではなく、頭にもドクンドクンと鼓動が響き始め、神前の体力は既に限界に近づいていた。
逃げ惑う脚も縺(もつ)れ始め、ヨタヨタと今にも転びそうな危なげなステップになってきた。
乱馬は神前が疲れるのを意識的に待っていたのだろうか…。
「にゃーっ。」
と一声鳴くと、一気に勝負を挑む如く、飛びかかってきた。
…もうダメだ!やられるっ!
神前が思わず目をつぶりかけたときだった。
あかねがいきなり飛び出してきた。
神前と乱馬の間に立ちはだかるように両手を広げて、あかねは身を投げ打った。
神前を守り、乱馬の攻撃を緩めるには、自らの身をさらすしか無いというあかねの判断だった。
突然目の前に飛び出してきたあかねに、猫乱馬はためらいを見せた。が、攻撃を途中で止められるほどの時間的余裕は無かった。
ドスンッ。
乱馬はそのままあかねの胸の中に吸い寄せられるように飛び込んでいった。
そして、あかねは乱馬の攻撃の煽りをまともにくらって、バランスを崩し後ろに倒れていた。
神前はとっさに、後ろから足を踏ん張ると両手を前に出して、倒れこんでくるあかねを支えた。
砂煙が上がり、時が止まると、三人はなんとか、転倒だけは免れた。
でも、反動で三人とも土の上にへたり込んではいたが…。
神前はほーっと一息をつくと、さっさと立ち上がって、まだへたり込んでいるあかねと乱馬からそろりと離れた。これ以上攻撃を加えられでもしたら身が持たないと判断したのだ。とにかく、乱馬から離れた方が安全と踏んだのだった。
「フーッ。」
逃げる神前を牽制して、乱馬は低い唸り声を上げたが、胸に乱馬を抱いたまま、あかねが必死でそれを制した。
「ダメよ。神前さんを襲ったら。ね、落ち着いて、乱馬ぁ。」
あかねの腕先から、少しだけ赤い血が滲み出ていた。飛び出した時、乱馬の爪先が触れたのだろうか。
あかねの声に落ち着きを取り戻したのか、神前の事などすでに眼中に無く、乱馬は途端におとなしくなった。
「何、そんなに興奮してたのよ。馬鹿なんだから…。」
「ふにゃーん。」
乱馬は一声上げると、そのままあかねの膝の上に背中を丸めてちょこんと鎮座してしまった。
神前は、二人から離れてた所まで回避し、じっと息を潜めて二人の様子を窺っていた。下手に動いてまた猫乱馬の標的になるのも馬鹿らしかったので、目立たないようにしていたのだった。
乱馬は、あかねの怪我をみつけたのか、あかねの腕を舐めはじめた。傷ついたあかねを精一杯いたわっているつもりなのだろう。
「くすぐったいよ。乱馬ってば。」
あかねが肩をすぼめると
「にぃーっ。」
乱馬は軽く返事をすると、今度はあかねの胸に顔を埋めた。
あかねの膝の上で、乱馬は思いっきり甘えているようだった。あかねは背中をさすりながら優しい瞳で微笑んでいる。
とても不思議な光景だった。でも、神前にはなんだか二人がとても幸せそうに見えた。
カシャッ。
神前の背後でシャッターの音がした。
振りかえると、そこにはなびきが居た。なびきはこっそりとポラロイドカメラで二人の様子を撮っているではないか。
「乱馬くん、落ち着いたみたいね。」
背後でなびきが言った。
確かに、嵐は遠のいたようだった。
「まっ、念のため、二人の視界から消えていた方が安全ね。」
神前もなびきの意見には賛成だった。
「お茶、飲みなおしましょうか。」
神前はなびきを誘って、そっとその場から離れた。そして、リビングの奥のキッチンへ入って行った。
「あのぉ、乱馬くんて猫化したらあかねちゃんがああやって世話を焼いてるんですか?」
神前が尋ねると、なびきは右手をそっと差し出した。
…しまった、また、情報料か。この後に及んでまだボッタくるつもりなのか…。
でも、小銭は底をついていた。
「あの、小銭もう無いんですけど…。」
どぎまぎして神前が言うと、
「まっいいわ。迷惑掛けたし、お茶入れてくださったら、チャラにしときましょうか。」
となびきは答え返した。
…ははは、しっかりしてるなあ。
お茶を入れながら神前は愛想笑いをした。
今度は緑茶にした。緑の薫りが神前にも落ち着きを取り戻してくれているようだった。
お茶をすすりながら、なびきは話し始めた。
「猫になった乱馬くんをなだめられるのは、あかねしか居ないのよ。今のところね。なんだかんだって言っても、乱馬くんはあかねのこと好きなのね。」
「確かに。」
神前は頷いた。
「あかねだって甘えられてまんざらじゃあないみたいでしょ。いつも乱馬くんに反発しているくせに、猫化した乱馬くんを膝に抱きかかえているときは、すごく穏やかな表情してるでしょ。あのこ。」
「ええ。」
「あかねの膝の上って乱馬くんには一番安心できる特上の場所ってとこかしらね。」
「それで、乱馬くんは正気に戻れるんでしょうかね?」
「大丈夫よ、あのままほおっておけばいいの。目覚めた時、正気に戻ってるわ。」
「ああ、そうなんですか。」
「そうよ。いつもの事ね。」
ずずずずずーっ。
別に気まずい訳でもないが、なびきと二人、緑茶をすする神前はどきどきしていた。彼女の並外れたちゃっかりさに実は怯えていたのかもしれない。
「この先、しばらくあの二人に振りまわされるのね、神前さん。」
「あ、ま、そ、そうですね。格闘オケが終わるまでは…。」
「あの二人の毒気に当てられて沈まないようにね。…考えたら神前さんも可愛そうね。」
なびきは静かに言った。
「あんまりにも気の毒だから、さっき頂いた情報料…。」
返金してくれるのかなあ、と神前は一瞬思った。そういうような間だった。しかし、すぐにそれは違うことがわかった。
「情報料は、返せないけどっと…かわりにいい物付けてあげるわ。勿論サービスよ。」
そう言うとなびきは三枚の写真を差し出した。
目を凝らして、眼鏡ごしによく見るとさっきの騒動の最中に撮られた物だった。
どういうつもりでこんな写真を自分にくれるというのか、神前はなびきの意図がわからなかった。
なびきはそんな彼を横目で流しながら言葉を続けた。あっさりと。
「これを、あかねか乱馬くんに見せて売りつければ、さっきの情報料くらいすぐ取り戻せるわ。」
神前はなびきの言葉に絶句してしまった。
…う、売りつけるー?
心の中で神前は反復した。
どうやったら、そんな発想が出てくるのか。人の良い神前はしたたかで計算高いなびきの思考が理解不能だったのだ。
口をあんぐい開けたままの神前になびきは写真を手渡して続けた。
「いくらまで競り上げるかはあなた次第よ、神前さん。」
神前の頭の中は、更に真っ白になっていった。
…何てことを平然と言ってのけるんだろう。この娘は…。
「さてと、乱馬くん、もう落ち着いたかな。」
神前の困惑ぶりを知ってか知らずか、お茶を飲み干すと、なびきはキッチンを出た。
我に返って、慌てて神前もなびきの後を追った。
五、
リビングはさっきまでの喧騒が嘘のように平和だった。
何時の間にか、あかねは庭先からリビングに移っていた。どうやら、馬鹿力で乱馬をここまで連れてきたらしい。
あかねは、まだ乱馬を膝に抱え込んで座っていた。
「あらあら乱馬くん、眠りこんじゃったのね。」
なびきが言った。
神前はおそるおそるなびきの背後から覗きこんだ。あかねの膝の上で、心地よさそうに眠っていた。
「あーあ、幸せそうな顔しっちゃってぇ。可愛いわね。」
なびきがからかうように言った。
「お、おねえちゃん!」
あかねは顔を真っ赤に染めながらそれに答えた。
「あ、ダメよ。急に動いちゃ。もう少しソッとしておいた方がいいわ。」
「どうして?」
「だって、猫化したまま起きあがったら、また暴れるかもよ。」
「……。」
あかねは黙り込んだ。
神前も、また猫乱馬に襲われるのは真っ平だったので、もう少しこのまま眠っていて欲しいと思った。
「ん…と、三時か。ちょうどいいかな。」
なびきはちらりと腕時計を見た。
「ね、あかね。これからあたしに付き合いなさいね。」
「付き合うって?何に?」
いぶかしそうにあかねはなびきに答えた。
「この後3時半頃から、「喫茶あんだんて」で暁オケのマネージャーさんたちと打ち合わせがあるのよ。それで、あかね、あんたにも天道道場の一人としてついて来て欲しいの。」
「打ち合わせに?私が?」
「そうよ、格闘オケの打ち合わせよ。こういうイベントはマネージメントが命よ。はじめにきっちりしておかないとね。」
あかねは、しばらく考え込んだ。
「別にあんたに交渉事をしろっなんて言ってないわよ。あんたは座っててくれるだけでいいんだから…。」
あかねに向かってなびきは続けた。
神前が観察するに、なびきは確かにマネージメントにはもってこいの逸材だろう。
自分より年下の二十歳にも満たないこの女性は、大人の男どもの中に放りこんでも、我を見失わず、冷静に物事を判断していくだろう。
現に、初対面の日に、あの川出と互角、いやそれ以上に渡り合っているなびきを目の当たりにしていた。数多くの修羅場を潜り抜けてきた筈の、あの川出とやりあえるのだ。もう、それだけで常人の域を越えているといって良い。
「とにかく、私だけじゃあちょっと不安だから、あんた、ボディーガードについて来なさいよね。」
「ボディーガードだったら乱馬の方がいいんじゃない?」
あかねはむっとして言った。
「だって、乱馬くんこのザマよ。中途半端に起こして、まだ猫のままだったらどうするのよ。」
「そ、それは…。」
「格闘家の集団だったらともかく、オーケストラの人達ばかりだから、あかねのガードで十分よ。あんたも男並みの腕力しているから。」
「もう、勝手なんだから、おねえちゃんは。」
「あのォ、だったら乱馬くんが目覚めてから三人で行ったら…。」
神前が横から口を挟むと
「だめだめ。乱馬くんが目覚めるの、いつになるかわからないし、第一あかねとペアにしておくと、喧嘩ばっかりするから、マネージメントの話どころじゃあなくなるわ。」
となびきにあっさり否定された。
「お、お姉ちゃん!」
あかねが反発した。
「だってそうじゃあない。あんた達、所構わず喧嘩ばっかりしてるじゃん。あんた達の痴話喧嘩に付き合ってられるほど暇じゃあないの。世間の人は。」
…結構きつい事平気でしゃあしゃあと言うんだなあ…
横で聞きながら神前は苦笑いをした。
あかねは、なびきに何か言いたそうだったが、姉に逆らうのは得策ではないのか、黙ってしまった。
「ほら、そうと決まったら、乱馬くん床にそっと下ろして支度なさいっ。」
なびきは今度は急かしにかかった。
しぶしぶあかねは姉に言われた通りに、乱馬をそっと床に下ろした。
そして、
「神前さん、乱馬のこと宜しくお願いしますね。」
と、申し訳なさそうに言った。眠り続ける乱馬が余程気に掛かるのだろう。
「え、ああ、わかりました。練習場でお会いしましょう。今日はいつもより早い6時過ぎ頃に僕も行きますから。」
今日は、初見大会なので、楽譜の印刷やらなんやらの雑用が神前を待ちうけているのだった。コンサートマスターのやることではないのだろうが、ライブラリアンもやっているような神前だった。(いや、むしろ雑用係と言った方が的確かもしれないが)
「ありがとうございます。それまでには乱馬も目が醒めるでしょう。くれぐれも宜しくお願いします。」
あかねは重ねがさね丁寧に神前に頭を下げた。
「神前さん、今度目覚めたら、乱馬くんもきっと元に戻っていると思うわ。もし、まだ変だったらさっきあげた物を見せるといいわ。多分それでおとなしくなるわ。」
なびきはそう言ってにっこり笑った。
「さっきあげた物って?」
あかねが不思議そうになびきに 問い返すと、
「いいの、いいの。あんたには関係ないことよ。それより、早くしないと。」
さっきあげた物というのは、きっと三枚の写真の事だろう。神前には理解できた。
「あの、「あんだんて」の場所、わかります?」
神前がただすと、
「ええ、ちゃんと来る時に駅までの迎えを頼んでおいたんです。駅までは戻れますから。」
さすがに段取りもタイしたものだった。道案内の約束もぬかりはなかった。
しっかりした娘だと神前は舌を巻いた。
自分ではどう頑張っても、なびきには勝てないだろう。
…川出さんでもたじたじになっていたもんなあ。あのパワー。きっと、人類が滅び去っても彼女だけは存在していそうだなあ…
心の底からそう思わずに入られない神前だった。
川出もなびきの辛辣さには相当頭に来たようで、あの日(天道家に初めて足を踏み入れた日)、帰りがけにさんざんなびきの悪態を聞かされた神前だった。
引き上げる用意をさっさとして、なびきとあかねは、ムジカハウスをあとにした。
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