#1 愛の挨拶(その4)
九、
気がつくと時計は昼をとっくに回っていて、一時半過ぎになっていた。
「とりあえず、今日はここまでにしておきましょう。明日も来ますか?」
「はい、出きれば。春休みの間に少しでも上達したいです…。」
あかねが返事すると、
「明日は、午後からね。2時くらいがいいかな。それでいい?」
二人が頷くと、
「じゃあ、そういう事ね。時間に余裕があったら、今日教えた事、さらっておいてくださいね。」
「はあい。」
神前は、楽器のしまい方を二人に教えた、松脂の取り方、楽器の拭き方、しまい方。やっぱり、あかねは並みの人以上に手惑った。でも、なんとか、無事にしまいこむことができた。
「二人ともお腹が空いたでしょう。大した物はないけれど、一緒にお昼、どうですか?」
二人が神前の申し入れに戸惑っていると、
「遠慮しないで。僕も一人で食べるよりも君達と一緒の方が、楽しいですからね。それに、よかったら、今日の夜にオケの初見大会がありますから、是非、見学して帰ってください。ねっ。」
「初見大会って?」
聴き慣れぬ言葉に乱馬は尋ね返した。
「初見…つまり初めて楽譜を配ってその場で音あわせすることですよ。今日から新年度の日程が始まるんです。次の定演に向けての練習が始まるんです。」
神前は懇切丁寧に彼の疑問に答えた。それから彼は、半ば強引に、戸惑う二人をダイニングルームに連れて行った。
「ちょっと。待っててね。今、温めてくるから…。」
キッチンへ引っ込むと、神前は鼻歌混じりに昼食の準備にかかった。
「おめえの何倍か、神前さんの方が、台所仕事に慣れてるみたいだな。」
乱馬はあかねにコソッと耳打ちした。
あかねも認めたらしく、珍しく、素直に頷いた。
確かに、エプロンこそかけていないが、神前の動きには無駄が無く、慣れた手つきで、テキパキと食卓の準備がすすめられた。天道家の台所番のかすみにも劣らない手際の良さだった。
肉じゃがにみそ汁、ほうれん草のお浸しに白いご飯、お漬物…。
ひととおり、食卓に並べると、神前は席に着いた。
「お待たせ、さっ、どうぞ。」
眩しいくらいの昼ご飯だった。すすめる、神前の顔は主夫そのものだった。
「いっただきまーす。」
慣れないレッスンで、乱馬もあかねも空腹だった事を忘れていたが、湯気の立つ美味しそうなお手製の和食を前にして、俄然、食欲が湧きあがってきた。
「すみません、神前さん。お昼までご馳走になっちゃって。」
あかねが、恐縮して言うと、
「いいんですよ。食事はいつも、僕が担当していますから、どうってことありませんよ。」
神前はにこやかに答えた。
「おいしい!」
「ホント、うめえや。」
かすみのとは、また違った味わいのある味付けだった。
「神前さん、ヴァイオリンだけじゃなくって、料理も上手だなあ。」
箸を進めながら、乱馬はひたすら感心していた。
「おかわり、遠慮無く言ってくださいよ、乱馬くん。」
誉められて、悪い気はしない、主夫、神前充だった。
食を進めていくうちに、乱馬が突然大きな溜め息をついた。
「どうしたの?乱馬くん。」
「あ、いや、こんな美味しいもの毎日食べられるここの人たちって、いいなあって思って。ひょっとして、ここのまかないって神前さんが担当してるの?」
「え、ええ。まあ、こういうことが得意なのは僕くらいなんで…。仕事もあぶれてますし…。取り立てて今やらなきゃいけない学業もない身の上ですから…。」
ちょっと自嘲気味に神前は言った。そう、彼は目下、職探しにやっきになっているところであった。いくら音大を優秀な成績で卒業しても、音楽家としては二流、三流。なかなか収入が安定したプロのヴァイオリン弾きになれるものではない。どこのプロオケも欠員は無く、よしんばあったとしても、その試験は数倍とも数十倍とも言われている。同じくらいの腕のヴァイオリン弾きは世の中にゾロゾロしていた。
ナイトクラブや結婚式などでアルバイト、プロオケのエキストラ(臨時雇い)などで弾きながらなんとかレッスン代は稼ぎ出すものの、まかないをやることでここへ置いてもらっているような複雑な身の上だったのである。
箸を止めて、乱馬はやおら、あかねに向かって言った。
「あかね、おまえ、神前さんにヴァイオリンと一緒に料理も弟子入りしろよ。」
目が真剣だった。
その問いかけに、あかねは黙して何も答えなかった。
「ホント、おまえもこのくらい器用に料理ができたらなあ。」
乱馬があまりにもしみじみと言ったものだから、神前は噴出しそうになった。が、グッと堪えた。そして、
「乱馬くん、急にナ―バスになって、どうしたの?」
などと、わざとらしく聞いてみた。
「あ、こいつさ、料理がメチャクチャ下手なんだ。何一つ満足に作れたた試しがないんだよ。」
乱馬は、神前に言った。
傍らであかねは知らん顔を決めこんで、黙々と食をすすめている。
「こいつの料理って、味覚がどうにかしているんじゃないかって思うほど不味いんだよ。その上、よっぽど体調が良くないと食えねえんだ。後でひどい目に遭うしさ…。ねえ、神前さん、こいつに料理のイロハ教えてやってくれよ。」
「ははは、大げさだなあ、乱馬くんは。」
神前は乱馬がまた冗談でも言っているものと思って取合わないでいると、
「あーっ、信じてねえな、神前さん。」
乱馬がムキになって言い出した。
「さっきヴァイオリンの弓を壊したような奴なんだぜ、こいつは。いつもいつも、こいつの料理で俺はひでえ目に遭ってるんだから…。」
バシッ!
神前の目の前をあかねの拳が勢いよく飛んで行った。
「いってぇー。何すんだよっ。」
頭を思いっきりドツかれて、乱馬は、叫び声を上げた。
あまりに突然のドツキだったので、神前は、そのまま固まってしまった。
「さっきから、黙って聞いてたら、何よっ!下手なのは自覚しているわよっ。」
あかねは、むくれている。
「自覚してるんだったら、努力しろよなっ。いい機会だから神前さんに教われよ。少しは進歩してくれよ。頼むから…。」
「なんで、あんたにそこまで言われなきゃならないのよっ。」
再び、隠遁とした空気が流れ始めていた。
神前は仲裁に入りたくても、二人のそれぞれの剣幕に押し戻されて、何も口から言葉が出ない状態に陥っていた。黙って、成り行きを見守るしか方法はなさそうだ。
「あのな、未来永劫、おまえの料理で一番被害を被るのは、この俺なんだぜ。わかってんのかっ?」
「なんで、あんたが一番の被害者なのよ。」
「おまえ、一生俺にまっずーっい料理食わし続ける気かよ。こっちの身にもなれよっ、バカッ。」
「バカとはなによ、バカとは。聞き捨てなら無いわねぇーっ。そんなにあたしの料理が嫌なら、あんたが神前さんに習って作ってくれればいいじゃないのっ。」
「あのな、俺は男なんだぜ。どうして、男の俺がそこまでしなくちゃならないんだよ。」
「あら、神前さんは男だけど、ちゃんと作れるじゃないっ。これからの時代は男だって、料理の一つや二つつくれなきゃねえ。」
「なんだとーっ。」
「男が嫌だったら、水を引っ被って、女に変身してやればいいじゃないのっ。」
「いやだねっ。だいたい、料理は女のたしなみだろうがっ。」
「女、女、ッて何よ。半分女を引きずってる、あんたに言われたくないわよっ。」
「何だとーっ?」
「何よ。」
「……!?」
二人の会話(口喧嘩)から、すっかりとり残されてしまった、可哀想な神前は、ひたすらクレッションマークが頭の中に点灯していた。
激しい会話の応酬はともかく、やっぱり、この二人の関係が今ひとつはっきり把握できない。何がなにやら訳がわからずおろおろしていたのだ。
面と向かって二人に「君たちって、いったい、どんな関係なのっ?」と一言投げかければ、謎は解決し、こんなに、二人の間に挟まっておろおろしなくて済みそうなものなのに…。そこまで、厚かましくなれないのが、神前の彼らしい生真面目さではあったのだが…。
…はあっ。参ったナー。
神前が自分の置かれた不幸な境地を持て余していると、ちょうど、玄関の呼び鈴が鳴った。
十、
まさに、その呼び鈴は天の助けであった。
取合えず、しばらくの間神前は、己が置かれた、浮き上がった立場から逃れる事が出来るのだ。願わくば、自分が席を外している間に二人の喧嘩が終了方向へ向かうことを望みたかった。
「ちょっと失敬!」
そう言い残して、神前は来客を確かめに玄関へ向かった。
玄関のドアを開けると、そこには見覚えのある若いショートヘアーの女性が立っていた。
「こんにちは。」
女性はニコッと笑って頭を下げた。
「あ、あの、確か君は…天道道場の……。」
神前が名前を思い出せずに口篭もっていると、
「天道なびきです。」
と女性は答えた。
「あの、うちのあかねがまだお邪魔しています?」
「え、ええ、あかねちゃんなら奥にいますよ。」
「あ、そうですか。あの、それで…。」
「はあ。」
「らん子ちゃんも来ていますか?」
「ああ、乱馬くんも一緒ですよ。」
神前は、なびきがわざわざらん子とふってきたことに気づかずに答えてしまった。
「あの、らん子ちゃんじゃあなくって、乱馬くんですか?」
なびきは念を押した。なびきはらん子の正体が乱馬だという事実が神前にばれているとは思っていなかったからだ。
「ええ。乱馬くんです。」
凡そそういうことには鈍い神前はすらすらと答えた。
「んーもうっ。バレちゃったのね、乱馬くんたら…。」
なびきは、しょうがないなあという表情になって、言った。
そこで、ようやく神前は不味い事を口走ったことに気がついて気まずくなった。なんという、鈍さだろう。
「あ、あのう、らん子ちゃんと乱馬くんが同一人物だっていうことを知ってしまったのは、僕だけですから。」
神前は、あわてて、フォローを入れた。声が裏返っている。
「そうですか。他の人、例えば川出さんにはばれてないんですか?」
「言っていません。乱馬くんに止められていますから。」
胸を張って言う事でもないが、神前はきっぱり答えた。そして、次の瞬間にはもう、気配りの神前に戻っていた。
「あ、あの、良かったらどうぞ。今ちょうど遅いお昼ご飯をみんなで食べていたところなんです。なびきさんは、お昼済ませました?」
「ええ、お構いなく。あの、お邪魔していいんですか?」
「ど、どうぞ。」
神前はなびきを招き入れた。
二人の喧嘩の中に一人で帰る勇気がなかったから、なびきの登場は、心からありがたかったのだ。
なびきは神前に招き入れられるままに、家の中に入ってきた。そして、興味深そうに、辺りを見まわしながら、彼の後について、部屋の中を進んで行った。
なびきをリビングに通すと、二人はまだ、しつこく睨み合っていた。
「あ、あの…。」
神前が睨み合う二人になびきの到来を知らせようとしたのよりも瞬時早く
「あんたたち、まーた、喧嘩してるの?」
となびきが先に口を開いた。
「あれっ、なびきお姉ちゃん。どうしてここに?」
あかねが珍客に驚くと、
「今日、夕方から、暁響の人とマネージメントの初顔合わせがあるのよ。その前に、神前さんの家に行ってご挨拶がてらあかねの様子を見て来いってお父さんに言い付かって、それで来たのよ。」
なびきがさらりと答えた。
「もーっ、お父さんたら、心配ないって今朝あれほど言っといたのにぃ。」
あかねが口を尖らせた。
なびきは、それにはとり合わずに、乱馬の方へ視線を巡らせた。
「やーっぱり、乱馬くんも一緒だったか。」
なびきは一人頷いた。
乱馬はなびきにあかねが心配だった事と、この間の夜の出来事をすっかりなびきに見透かされているような気がして、黙っていた。あかねをずっと一晩、傍にいて守っていたこと。そして、そっと交わしたくちづけのこと…。
なびきは、ふふんと鼻先で笑うような素振りを見せてから、
「神前さん、この二人の面倒見るの大変だったでしょう?」
と、言い放った。
「あ、い、いえ、あははは。」
神前はその問いにはちゃんと答えずに、笑いながら受け流した。彼女が言うように大変だったと心の中では頷いていたが。繰り返される二人の喧嘩にはほとほと手を焼いていたのだ。
「もう、仕様がないんだから。守村さん困ったって顔に書いてあるわよ。喧嘩ばっかりしてたんでしょう、あんた達。」
なびきは二人を窘めてから続けた。
「あ、ちょっとごめんなさい。うちに電話を入れておくわ。お父さんがうるさいから。」
なびきは立ったまま、携帯電話をバッグから取り出すと、親指でプッシュホンを押し始めた。
そして、ダイヤルをプッシュし終わると右耳にあてて相手が出るのを待った。
数秒して、相手が出たのか、なびきがそのまま喋り始めた。
「あ、早乙女のおじ様?なびきです。お父さんいます?」
「……。」
「いないの?え?あ…えっ?、いるのね…。あ、あのぉーおじ様…余計な事かもしれないけど……パンダの時は電話に出ない方がいいわよ……。」
一瞬、なびきの忠告に、神前も乱馬もあかねも真っ白になった。
特に、変身人間の免疫の少ない神前など、耳が点になっていた。
…今の電話にあの、巨大パンダが出たというのか…ど、どうやって?…
「あの、パンダ親父、喋れねえクセに、また、電話をとりやがったのか!」
「しょうのないおじ様ねえっ。」
乱馬とあかねは電話の傍で顔を見合わせた。
「あ、お父さん?今、神前さんの家に着きました。…えっ?…うん、あかねなら、ちゃんといるわよ。…大丈夫よ。乱馬くんも一緒に来てたから…ン…だから心配ないって私が言ったでしょ?彼があかねのことほっとくわけないじゃん。」
乱馬は、余計な事を言うなという表情になった。
「うん、じゃあ、夜遅くなるかもしれないけど、三人で帰る…と思うから…わかってるって。じゃあねっ。」
フツッっとなびきは携帯電話の電源を切ると、
「ホントに、お父さんって心配性ねえ。」
と溜め息をついた。
少し静かな間があってから
「あ、あのっ、お茶でも入れてきますね。」
慌てて神前がその場を取り繕った。
「あ、あの、そうぞお構いなく。」
儀礼的になびきが言ったが、そこは気配りの神前だった。
「ダージリンティーでも入れてきますよ。僕も飲みたいから…。」
そう言って、自分の食べた食器を下げにかかった。
「あ、あたしも手伝います。」
となびきが言った。
「あのっ。」
と神前がとりつく島もなく
「あかねと乱馬くんはまだ食事の途中でしょ。喧嘩してないで早く食べちゃいなさいよ。神前さんとお話したいこともあるから…奥へ行くわ、ねっ。」
なびきは神前にウインクして、食器を持ってキッチンへ入って行った。
十一、
キッチンはこざっぱりと整理されていた。
「あら、男ばっかりの所帯なのに、きれいなものねえ。メイドでも雇ってらっしゃいます?」
なびきの問いかけに神前は答えた。
「いいえ、大方僕が一人でまかなってますけど…。あ、下げたものはそこの流しの所に置いておいて下さい。後で僕が水洗いをしますから。」
そう言うと、神前は慣れた手つきでアフタヌーンティーの用意を始めた。
ちょっとしゃれたやかんに水を張りコンロにのせた。そして、カップとソーサーとスプーンを人数分取り出してトレイの並べていった。
「ねえ、神前さん。」
「はい?」
「つかぬ事を伺いますけど、いつ、乱馬くんの変身体質のことお知りになりました?」
「ああ、それなら、この間、天道道場へ川出さんと尋ねたときです。ほら、あの、八宝斎とかいうおじいさんに水をかけられたでしょ、僕。あの後すぐだっだかな。」
神前はなびきに、あの時の一部始終をなびきに話した。
風呂場で着替えていたらいきなりらん子が乱入して気を失った事、目覚めると乱馬に出会った事、水とお湯で自在に男と女が入れ替わる乱馬の変身体質を目の当たりにした事、そして、今朝、乱馬本人から変身体質になったいきさつや他にも変身体質者が存在する事実を聞かされた事などを一気に話したのだった。
「ふーん、そうだったの。まっ、確かに、暁の中にも乱馬くん達のことを知っていてもらった方が都合がいいわね。」
「ええ。あっ、でも僕、誰にも話していませんからね。」
「気を遣わせてごめんなさいね。天道家の人間にも神前さんが全て知っていてくださる事をちゃんと話しておくわ。あなたも大変でしょうけど、この事は…。」
「わかっていますよ。秘密は厳守します。」
なびきは神前が乱馬のことをどの程度まで知っているか、確認しにキッチンまで入って来たようだった。少なくても、神前にはそう感じられた。
「ところで、神前さん、あの二人のレッスンちゃんと進みました?」
「え、いや、あははは。」
神前は思わず愛想笑いをしてしまった、実のところ、いろいろあって予定の半分ほどしか進まなかったのだった。
「やっぱりね。二人とも大方喧嘩ばっかりしていたんでしょう。」
「ええ、まあ。」
「しょうがないわねえ。あかねも体調が戻ったところだから、いつもの倍は喧嘩してたわね、きっと。」
「あかねちゃん、体調を崩してたんですか?」
「柄でもなく、先週、高熱を出してずっと寝ていたの、あの子。乱馬くんはおじ様と修行で一週間ほど山篭りしていたから…。」
「はあ、山篭りねえ。」
神前はパンダと乱馬くんが山へ篭っている場面を想像してしまった。
パンダだから、どうしても、笹の多い竹やぶの山を思い浮かべてしまったのだった。
「二人とも、ずっとすれ違っていたから、一気に噴出したように喧嘩していたんでしょうね。」
なびきの言葉に、パンダの想像から立ち戻った神前は、今朝からずっと抱き続けている疑問に終止符を打つべく、なびきに向かって切り出した。
「あ、あのう…つかぬ事をお尋ねしますが…。」
「はいっ!?何か?」
神前はなびきに訊けば全ての疑問が解決する、とは思うものの、こんな事を訊いていいのかどうか、ちょっとどきどしてしまう小心者でもあった。しかし、勇気を振り絞って、顔を紅潮させながら言葉を続けた。
「ら、乱馬くんとあかねちゃんって、一体どういう関係なんですか?」
何かとてつもない恥ずかしい事を聞いているような気がして、神前はすっかり動揺していたのだった。
しかし、次の瞬間、神前のそんな、純情な心はすっかり萎えてしまったのだった。なんと、なびきは神前の疑問に答えないで、こともあろうに、右掌を彼の目の前に差し出してきたのだ。
「な、何ですか、この手は?」
突然のなびきのリアクションに神前は思わず問い返した。
「何って、情報料の催促よ。」
事も無げになびきは答えた。
「情報料って…。」
神前はなびきの真意を量り兼ねて、反復した。
「人に物事を尋ねる時のエチケットよ。」
ぽっそりとなびきが事も無げに言ってのける。
…な、何だあっ?…
神前は凝固した。しかし、なびきはさらっと言葉を続けた。
「そうね、今のところは五百円で、許してあげるわ。有償にしてこそ、価値ある情報は耳に入るものよ。これは常識でしょ。」
「し、しっかりしているなあ…。」
神前は、仕方なく五百円玉をポケットの財布から取り出して摘み上げると、なびきの掌に置いた。
「ありがとっ。」
なびきはちゃっかり五百円玉を自分の懐に仕舞い込んだ。
そして、神前に改めて向き直って言った。
「乱馬くんとあかねについての情報よね。」
「ええ、あの二人、仲が良いのか悪いのかよくわからないんですよ。」
「確かに、慣れていない人が見たら、わからないわよね。」
「そもそも、あの二人って、どんな関係なんですか?恋人、友人、兄妹、親戚?。どれひとつとっても当てはまらないんですよね。」
「あの二人、反発し合っているから、表面上は仲が悪いように見えるけど、心の底では愛し合っているのよ。」
なびきの言葉に神前は軽い衝撃が走った。反発し合いながらも惹かれ合う関係って何だろう。
「愛し合ってるって、どうしてわかるんです?」
「そうねえ、あの二人の反発って愛情の裏返しなのよ。それが証拠に、いつだって二人だけの世界に入りこんで喧嘩しているでしょう?」
なびきの分析は正しかった。神前が二人の間に入っておろおろしていても、二人は関係なく喧嘩していた。
「確かに、言われてみればそうですね。」
「あの、喧嘩は愛情表現なのよ、一種のね。」
「でも、なんで愛情表現を喧嘩でしているんです?」
神前には解せなかった。こうなってくると、哲学に近い。恋愛経験がそう豊富でない神前はそのあたりのことは良くわからなかった。
「奥手なのよ。二人とも。そう、プラトニックな関係から飛び出せないのね。きっと。」
「プラトニックですか。」
ちぐはぐな会話をしながら、神前は年下の小娘の言葉に聴き入っていた。
「そう、キスする事すらためらうような…純愛なのよねえ、あの二人って。」
「まだ、高校生だから仕方ないでしょう?」
「何言ってるの、今時の高校生なんてあんたっ。その実態なんか知れたもんじゃないわよ。それにね、あの二人の場合、プラトニックな関係をはみ出したって構わないのよ。」
神前はなびきの言葉の真意がわからずにいた。それどころか、ますます頭の中は混迷してくるのだった。
「第一、高校生じゃあ、親の庇護の元にある訳だからそれ以上の関係になるのは無理でしょう?まさか、肉体関係を持つなんて…。」
神前の混迷ぶりは見事だった。もはや何を口走っているのかわからない状態に陥っていた。こうなってくると、疑問を解決するどころか、もっとこんがらがってくる。
それに比べてなびきは実に淡々としていた。
「それは、一般論よ。一般論。あの二人の場合はいいの。」
神前は考え込んでしまった。
「わからないなー。だって、天道さんあかねちゃんが心配でなびきさんにここまで来させたわけでしょう?」
「あれは、あかねが一人でここに来たと思っていたからよ。」
「まあ、僕も一応男ですからね。天道さんが心配するのも当然ですよね。でも、乱馬くんだって体質はともかく、男なんだし、心配する親を差し置いて、まさか、深い関係は結べないでしょう。普通。」
混迷をする神前を観越したようになびきが語りかけてきた。
「この先も聞きたい?」
今更辞められるわけがない。このままだと尾を引いて、ずっと悩みつづけそうな気配だった。
「ええ、是非。」
「じゃあ、あと五百円。」
なびきはどこまでもなびきだった。
…なんて、女なんだっ!
そう思ったものの、神前はしぶしぶ疑問の解決のため、また、五百円を渡すことにした。今度は百円玉五枚で。
「あの二人が結ばれたら、うちの父も乱馬くんの父親も、狂喜乱舞することは間違いないわね。」
なびきはせしめた五百円をしまいこみながら言った。
「まあ、もともと、父親同士が仕組んだ事なんだから、狂喜乱舞して当然なんだけど…。」
「親同士が仕組んだって言っても…。」
神前は早乙女玄馬の人間の素顔にはお目にかかったことがない。だから、乱馬の父親といえば、自ずとパンダの姿しか浮かんでこないのだった。父親同士が仕組んだ…などど言われても、早雲とパンダが顔を突き合わせて、好からぬ事を相談している図絵しか、頭に思い浮かばないのだ。ますますもってわからなくなる。
「で、乱馬くんとあかねちゃんて結局、なんなんです?」
これ以上疑問を膨らませたくなかった神前に対して、なびきは更に右掌を出してきた。
「わかりましたよ。」
そう言って、今度は自ら五百円を出そうとした。が、あいにく小銭を全部合わせても四百十七円しかなかった。
「あの、小銭これだけなんで、まけてくれませんか?」
「まあ、いいわ、サービスね。」
なびきは小銭を取ると、ポソッと答えた。
「許婚よ。」
「えっ!?」
「父親同士が勝手に決めた許婚なの、あの二人。」
「い、い、な、ず、け…。」
神前には、新鮮な響きを持っている言葉だった。
…そうか、そうだったんだ。恋人でもない、友人でもない、血のつながりもない、それでいて近い、密度の濃い関係の正体は。
一気に疑問が解けた。
『親同士が勝手に決めた許婚』この一言で、乱馬とあかねの関係がすっきりしたように思えた。
「もともと親同士が無理やり決めた許婚だから、なかなか素直になれないのよあの二人。」
「でも、愛し合っているって…。」
「そうよ。当人達はなかなか認めようとはしないんだけど、二人の間は、切れない絆で結ばれているのよ。」
「その反動が喧嘩になって現れているんですか…。喧嘩するほど仲が良いって。」
「そういうことね。」
いつのまにか湯は湧きあがって、やかんの水は煮えたぎってた。
神前はあわてて、紅茶用のポットに熱湯を流し込んだ。そして、なびきと何事もなかったように装って、乱馬とあかねの居るリビングの方へと戻った。頭に広がった疑問が解け、財布は小銭がすっかりなくなり、身がとても軽くなったような足取りの神前だった。
千四百十七円の代償を払いはしたものの…。
一之瀬の音楽業界用語の基礎知識
初見大会(しょけんたいかい)
「初見」とは読んで字の如く…貰ったばかりの楽譜をその場で弾くことです。その初見をオケやアンサンブルメンバーで賑やかにやるのが「初見大会」。
本当はちゃんと先に配られた楽譜を読んで練習しなきゃダメなんですよ…(笑
アマオケの場合、使う楽譜は殆ど原本のコピーだったりします(汗
本当は著作権どうなんだか…知りませんが、みんなそうです。(クラッシック音楽の場合救いは殆どの作曲家が亡くなって五十年過ぎているんで・・実質の著作権が終わっていることが多いです。)
たまに、著作権が切れてないときは、練習はコピー譜使って、本番はちゃんと著作権認可のシールを張った楽譜使うこともあります。(いやあ、あちこちのオケ巡ってきて、日本語のみならずいろんな外国語の書き込みがある楽譜に出会うといろいろ妄想膨らみます。学生時代に当時まだ版権が切れていなかったシベリウスの交響詩を借りてきてやったのですが、他国語で書いてあっても「めがねマーク」やらアインザッツの合図の記号などは同じだったので感動したことがあります。)
初見大会…アマオケの場合は曲が大きいと悲惨な結果に終わります。弾けなくて(吹けなくて)、楽譜を追えなくなることをこの業界では「落ちる」と言います。オケが止まることを「空中分解」と呼びます。
初練習に臨む心得として、楽譜をちゃんと製本しておくべきですね。はい。(これって弦パートは結構大変だったりする。枚数が多くて長い交響曲だと20枚以上というのもざらなんで…)
楽譜を管理する人楽譜係は「ライブラリアン」と呼ばれます。アマチュアは各団に一人ないし二人、この楽譜係の方がいらっしゃいます。あ、勿論プロのオケにもいらっしゃいます。
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