#1 愛の挨拶(その3)
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神前は、ヴァイオリンの構え方のイロハを教えるべく、二人に肩当てを調整し、軽く調弦を施すと、教則本の最初に載っているような、基本を実践していった。
もちろん、ここにおいても、あかねの不器用さは際立っていて、予想以上に苦戦した。
構え方を教えると、今度は、基本の開放弦のボーイングへと進んで行く。
通り一遍等の初レッスンのメニューだ。
「左手を何も押さえない状態を、開放弦といいます。覚えてくださいね。ヴァイオリンを練習する時、プロでもまず、この四本の開放弦を充分鳴らす事から練習を始めます。」
「ウォーミングアップですか。」
あかねが訊くと、
「確かにウォーミングアップですが、大切な練習でもあります。開放弦の弾き方や鳴り方ひとつで、その、ヴァイオリン弾きのレベルがわかってしまうほどなんです。単純なようですが、なかなか、侮れないのが、開放弦の弾き方なんです。」
実感を込めて、神前は答えた。
実際、子供の頃から、開放弦を弾かされただけで、何度、師に叱られ続けたことだろう。開放弦の響きが十分でないと、練習をサボっていた事がばれてしまう。また、スランプに陥っている時など、あからさまに開放弦はその響きを無くしてしまうのだった。
「ふうん、こんな、基本をヴァイオリン弾きは、プロでも毎日練習するのか。」
乱馬は、感心してしまった。
「格闘でいえば、ロードワークとか基本体型を練習するのと同じことね。」
あかねもしきりに頷き返す。
ヴァイオリニストの腕は右手のボーイング、左手のフィンガリングで決まると言っても良かった。右手は響きを司り、左手は音程を支配するのだ。
「じゃあ、まず、A(アー)線からいこう。」
乱馬とあかねは教わりながら、ぎこちないフォームで、キコギコやり始めた。
「力を入れたらダメだよ。あ、あかねちゃん、ほら、また、弓がきしんでるよ。もっと気を楽にして。そんなに力んだら、また、弓が壊れるよ。」
あかねのぎこちなさは、端から見ていて、乱馬もひやひやしていた。
A線から始まって、D(デー)線、G(ゲー)線へと、ボーイングの練習は移行していく。弦の音が低くなるにつれて、右肘は逆に上がってゆく。
神前にアドバイスを受けながら、二人は必死に、弾いていた。喧嘩する余裕すらないほどに集中していた。
不器用なあかねに苦労しながらも、なんとか、弾いてゆく。
G線までくると、今度は一番高い音の弦、E(エー)線へ移った。
今まで、低いG(ゲー)の音だったのが、逆に耳元に高い音が響く…筈だった。
「ほら、しっかり右の脇をしめて、弓を弦にすいつかせないと、いい音が鳴りませんよ。」
そう、二人とも、Eの音とは程遠い、金切り声のような、金属音が鳴ったのだった。
「うへっ、気持ち悪りィっ!」
鳥肌が立ちそうな嫌な音に乱馬は思わず叫んだ。
「ほんと、ガラスを引っ掻いたような、変な音だわ。」
あかねも弓を止めた。
「E線は、初めての人には鳴らし辛いかな。」
神前が言った。完全に音がひっくり返っている。
「E線は細いうえに、一番低い位置にあるから、どうしても最初は右腕の重みが乗りにくいし、コントロールが難しい弦だからね。ほら、だから、今みたいに音が裏返っちゃうんだ。まあ、仕方ないけどね。」
「案外。難しいだな。ちゃんと音を出すのって。」
乱馬がほっと息を吐き出した。
「ええ、まあ、慣れるまでは、右手のコントロールに苦労するでしょうね。君達みたいに即席栽培のアマオケ用のヴァイオリニスト養成じゃなくって、きちんとした、レッスンに基づくヴァイオリニストを養成する先生なら、この、4つの開放弦のボーイングだけで、みっちり数ヶ月以上かけるなんていうこともザラですよ。」
「うへっ、すっげー!」
「それだけ、奥が深いんですよ。楽器をきちんと鳴らすことは…。」
「何の世界でも基本は大切なのね。」
あかねはしみじみ言ってのける。
「そうですね。あかねちゃんの言うとおり。君達も格闘をやるとき、基本を大切にしているでしょう?」
「そっかな。無差別格闘流には、そんな基本を反芻するようなシビアな部分なんてないよなっ。」
乱馬は、そっけなく答える。
「何言ってんのよ。早乙女流はそうかもしれないけど、うちの天道流は少なくとも基本を大切にしているわよ。」
乱馬の答えにあかねが反発した。
「どんな、基本だよーっ。」
「走り込んだり、柔軟やったりとか。」
「へっ、天道流の基本は、瓦割りじゃあねえのか。力技が基本だろ。」
「何よ。セコイ技ばかりの早乙女流よりはマシよ。」
また、二人はにらみ合っている。
「あっ、こらこら、まだレッスン中だよ。お二人さん。」
ちょっと気を許すと口喧嘩が始まってしまう二人に、神前は少しづつ二人のペースに慣れ始めていた。
「とにかく、基本は大切だからね。自分の耳で、自分の出す音の善し悪しをしっかり聞き取ることだよ。」
「はあい。」
二人は、声を揃えた。すぐ喧嘩するくせに、息だけはぴったり合う二人だった。
「ところで、ボーイングに戻るけど、二人ともここまで弾いた中で、すでにもう、クセがついちゃってるんだよ。」
神前はアドバイスを続けた。
「乱馬くん、A線弾いてみて。」
「はい。」
神前の指示に、戸惑いながらも、乱馬は言われたとおりA線を弾き始めた。
「乱馬くん、ストップ。」
乱馬が止まると、
「今度は鏡を見ながら弾いてごらん。」
言われたように、鏡を見ながら乱馬はA線を引き始めた。何故かここには大きな姿見があった。
「こらこら、顔を見るんじゃないよ、乱馬くん。ここ、この駒のところ、弓のところ。ほら、弓の走行が弦に対して直角になっていないだろっ。」
神前は、鏡の中の乱馬に向かって説明し始めた。
「先弓と元弓で全く違う動きをしているんだ。まっすぐに弓を動かさなければならないのに、半円を描いたような動き方をしてしまってるんだよ。」
言われてみれば、そうだった。
「これは、人間の手や腕の特性上、誰でもそうなる傾向があるんだけれど、見ていてカッコ悪いだろ?美しくないんだ。」
なるほど、神前が指摘するとおり、きれいではない。
「それと、もうひとつ。弓はできれば、この黒い部分、そう、指板(しばん)の方ではなくて、駒よりの方を弾いた方がよくとおる鮮明な響きになるんだよ。これも、どうしても指板の方に寄ってしまいがちになるんだ、不思議なくらいね。」
「はあーっ、ホントに開放弦ってたっけ、それひとつとっても、奥が深いんだな。」
乱馬の声には実感がこもっていた。
「わかる?正しいフォームと美しいフォームは一致しているんだ。だからこうして、大きな鏡を使って自分のフォームをチェックする事も大切なんだよ。」
「それで、こんな大きな鏡がここにあるのね。」
あかねが言うと、
「僕も時々、自分のフォームを鏡でチェックしているよ。」
と神前が続けた。
「鏡は必需品なのか。」
乱馬もあかねも感心してしまっていた。
「でもさ、鏡を見て神前さんなら、きっと、自分の姿に見惚れてしまいそうだよな。」
乱馬がぽつんと言った。
「失礼な事言わないでよ、乱馬。」
「だって、神前さんのフォームって色っぽいぜ。自己陶酔しそうじゃねえか。」
「バカ。あんたみたいにナルシストじゃないわよ、神前さんは。」
「そっかなあ、鏡をみていつも練習しているんじゃあ、ヴァイオリニストって、みんな、ナルシストの気があると思ったんだけど…。」
「……。」
乱馬の指摘は鋭いと神前は思った。
確かに、ヴァイオリニスト、いや、楽器を生業とする奴には、ナルシストが多い。
「ほんとに、何言い出すのよ。乱馬は確かにナルちゃんでしょうけど、だからって神前さんまで仲間にする事はないでしょう!」
「俺のどこがナルちゃんなんだよ。あっ、そうか。おめえは、なりたくてもナルシストにはなれないよな、かわいくねえしよーっ。」
「何ですって?」
「寸胴だし、怪力だし。鏡にどう写したって、被写体が悪いとなあ。鏡も泣くわな。」
「言ったわね。」
「ああ、言ったよ。」
「乱馬っ!」
「へっ!やるか?」
もう、止めるのもバカらしくなりつつある神前だった。
…この二人の痴話喧嘩は、もう、犬も食わないって言う奴だな。喧嘩するほどなかがいいって言うし。この調子じゃあ、先が思いやられるよ…明日から助っ人を頼んだ方がいいかな。うん、そうしよう。徳永くんに頼むか…。
神前はいつ果てるともしれない、乱馬とあかねの口喧嘩を見つめながら、やれやれと溜息を吐いた。
8
何度めかの二人の喧嘩を眺めて、神前は自分の入る余地が全く無い事にようやく気がついた。この二人の喧嘩はコミュニケーションの一部なのではないかと、そう思えてきたのだ。
そうなると、萱の外にポツリと取り残された自分は…一人負けかな、それもいいか…。
別に投槍になった訳ではなかったが、神前は自分の腕試しついでに、ちょっと二人に意地悪してみたくなった。
神前は自分の愛器を取り上げると、先弓で軽く調弦をした。そして、二人に向き合った。
「何か弾いてみようか?」
突然の申し入れに、二人は喧嘩を止めた。
「さっき。君達に教えたボーイング。やってみるから、響きを聞いてごらん。」
神前は、そう言うと、ゆっくりA線を弾き始めた。
楽器の良し悪しは当然としても、A線一本で、乱馬達のものとは比べ物にならないほどの、深遠な音が響き始める。弓も弦に吸い寄せられるように、美しい直線を描いていた。
乱馬もあかねも、神前が目の前で奏でる、たった一本の開放弦の音に身動きが出来なかった。
神前が、何回か往復させた弓の上下運を止めると、二人は溜め息をついた。
「はあーっ、すっげーっ。いい音すんだなあー。」
乱馬は、心底感心して言った。理屈抜きに神前の奏でる音に感動していたのだ。
左手は使わない、右手だけの響きで、これだけ人の心を釘づけにする。神前のただならぬ才能に、あらためて敬意を示したのだった。
「ねっ、開放弦ひとつでも、このくらい響くんだよ。」
神前はにっこり笑って言った。
「うーん、ヴァイオリンの音って傍で聞くといいなあ。」
乱馬はまだ感心していた。
「でしょ。私が憧れる気持ち少しはわかってくれる?」
あかねは、息を弾ませた。
「まあね。でも、俺たちには、一生かかっても、こんな、深みのある音は出せないだろうなあ。」
「あれ、いつになく、弱気ねえ。乱馬。」
「一曲、弾いてみようか?」
神前は、話し掛けた。
「えっ、ホントですか。是非っ。」
あかねが目を輝かせた。
「お願いします。俺も聴いてみてぇや。」
乱馬も、これほどの開放弦を鳴らす神前の実力がもっと知りたくなっていた。
「んーっと、何がいいかな。」
神前は天井を見上げて、
…うんっ、この二人にピッタリな小品曲があるっ。
と、にっこり頷いた。
そして、ゆっくり息を吸いこむと、柔らかくメロディーを奏ではじめた。
深みのある透明な音が、部屋中に響き始めた。派手ではなく、シンプルな、ゆったりとした、優しい気持ちになる旋律の曲だった。
口元に微かに笑みを浮かべて、ヴァイオリンに愛を囁き掛けていような神前の容姿は、妖艶だった。男の乱馬でもゾクッとするような、妖しい魅力に溢れている。
ふっと、乱馬が視線をそらすと、隣のあかねも神前に見惚れている。
神前に少しでもあかねが心を奪われていると思うと、ちょっと悔しい気もしたが、いつものような嫉妬は感じられなかった。
神前の奏でるヴァイオリンの魔力にとりつかれたのだろうか。不覚にも、神前に見惚れているあかねがかわいいとさえ、思ってしまっている。普段は、心の奥底深く眠っている、あかねへの想いが一気に噴出してくるような、不思議な感覚に見まわれていた。
あかねも同じような感情の中にいた。
神前の音色に心が奪われていた事も確かだったが、傍らに佇む乱馬の優しさが音と共に、自分の中に流れ込んでくるような気がしたのだった。
普段は、「反発」という形でしか表現できない、そして、表現してもらえない「愛情」が音を通じて心に満たされてくる、そんな、気がしたのだった。
神前の奏でる短い小品曲は、喧嘩でしか、表現せきない、不器用な二人の、まっすぐな感情を見事に、表に引き出していた。甘く透明なヴァイオリンの響き。
神前の「一人勝ち」だった。
ヴァイオリンの音が、彼方に消え去った後も、二人は暫らく言葉を失い、固まったままだった。そう、身動きが出来なかったのだ。
神前は、黙ったまま固まっている二人を見て、思わず、微笑がこぼれてしまった。
…やっぱり、口喧嘩は愛情表現かな…。
純情な二人が、ちょっぴり、羨ましくもあった。
「満足してくれましたか?」
神前は、弓を緩めながら二人に話し掛けた。
暫らく間をおいてから、乱馬がその問いに答えた。
「神前さん、ヴァイオリンの音って、上手い人が奏でると、凄く豊かで深みのある響きがするんだな。俺、すぐ目の前でヴァイオリンの演奏聴いたのって、今日が初めてなんだけど、なんて言うのかな、うまく表現できないけど、こう、すごくあったかい、いい気持ちになったよ。」
あかねも頷いている。
「ありがとう、乱馬くん。」
「えっ?」
「それって、演奏家にとって、最高の誉め言葉だよ。」
きょとんとしている乱馬に向かって神前は言葉を続けた。
「僕のヴァイオリンからいろんなことを感じ取ってくれたんだね。そう、あったかい気持ちになる曲だったろ?この曲の題名知ってるかな?」
「さあ…。」
「どこかで耳にした事はあるけど、題名まではわからないわ。」
あかねも首を傾げた。
「エルガーっていうイギリスの作曲家が書いた「愛の挨拶」という曲だよ。君たちにぴったりだろ?」
そう言って、神前はいたずらっぽく笑った。
乱馬とあかねは、耳まで赤くなってしまった。二人とも、神前の言葉に心の中まで見透かされたような気持ちになったからだ。
それにしても…と乱馬は思う。
音楽というものが、こうまでも人の気持ちの中に入りこんでしまうものだったとは…。侮る事は出来ない…と。
きっと、格闘オーケストラも、シビアな闘いになるのではないか…という、予感が頭を過ぎった。
…できれば、この人は敵にまわしたくない…
神前を見て、つくづくそう思った。
神前は神前で、今日の演奏には、それなりに納得していた。弾いていて、実に爽快な気分を久しぶりに味わったからだ。その上、素人の二人を惹き付けられた演奏でもあったから。
…やっぱり、ヴァイオリニストの僕は、ナルシスト…かな…。
自分の考えに噴出しそうになるのをこらえながら、ヴァイオリンをケースにいそいそとしまいこんだ。
一之瀬の音楽用語の基礎知識〜その4
ヴァイオリンの弦
上から E線(エー)=ミ、A線(アー)=ラ、D線(デー)=レ、G線(ゲー)=ソ…に調弦します。
まずは「A線」を442HZくらいにあわせて、それから2本ずつ弾いて、耳であわせます。
ヴァイオリンの弦は古くは羊の腸から作られていました。「ガット弦」と言ってピンからキリまでありますが高いです。
それでアマチュアは安価な「スティール弦」を使うことが多いかも…最近は「ナイロン弦」も出回り始めました。
ガット弦はその性質上、切れやすく、また、緩みやすいのですぐ音が下がります。日本のような湿度の高い国は楽器奏者泣かせです。弦は張り替えると最低一日は弾きこまないと下がり続けます。本番前に切ると悲惨です。
チェロにはガット弦は殆ど使用しないそうです…ヴィオラはどちらも使用します。が、私はスティール弦です。本当はこれも数ヶ月に一度張り替えますが、お金がないので私は切れるまで使ってます(笑
楽器によって弦にも相性があるんですよ。例えば「オールド」と言われる100年もののヴァイオリンはガット弦を、反対に新しい楽器はガット弦では音が負けるので「スティール弦」を使うことが多いです。弦一本でも奥が深いのが弦楽器です。
私の愛器はヴァイオリンは安普請のSUZUKIのセット(多分一番安いと思われますがメチャクチャ音が響きます。音は下品だと言われてますが…)
ヴィオラは西ドイツ産の1980年の比較的新しい楽器です。小ぶりで指の小さい私にはとても扱い易い楽器です♪
(c)2012 Ichinose Keiko