#1愛の挨拶(その2) 
四、

 三段ある、レンガの階段を上がって、二人は神前に招き入れられるまま、洋館に入った。
 中は、天井が高く、がらんとしていて、玄関からいきなり広い部屋になっていた。
 左手に、大きな、若い男の肖像画が飾ってある。
「でっけえ絵だなあ。」
 乱馬が先に感想めいた事を言った。
「本当。でもちょっと素敵な男性(ひと)ね。」
 あかねが続けた。
「あ、この絵ね。この家のの最初の主だった人の肖像画だよ。」
「へえ、最初の主かあ。古いのかな、この家って。」
 乱馬の問いかけに、神前は、
「築八十年って聞いているよ。」
「じゃあ、もうこの世の人じゃあないよな。」
「なんてこと言うのよ。」
 あかねが慌てて制しにかかった。
「そのとおり、三十歳くらいで夭折したそうだよ。」
「ふうん。でも、なんか、この絵、今にも動きそうなくらい、リアルだな。生きているみたいだ。」
 乱馬は、肖像画を見上げた。
「変な事言わないでよ、乱馬。」
 あかねが、言うと、
「ほら、おまえを睨んでるぜ。あっ動いたぞ。」
「嫌だもうっ、おどかさないでよ、乱馬あっ。」
 あかねが怖がるのを見てますます乱馬は面白がった。
「ばーか。んな事あるわけねえジャン。ほんと、おめえは単純だなあ。」
 いたずらっぽく乱馬は笑っている。
「あんたねえ、いい加減にしなさいよ、終いに怒るわよ。」
「怒ったって、怖かねえぞ。」
「乱馬っ。」
 
「……。」
 また、二人の間に不穏な空気が流れ始めていた。あっけに取られて。暫らく、何も口を挟めない神前だった。寄るとさわると言い争いをおっぱじめるこの二人。どう対処して良いのか、わからず、うろたえていたのかもしれない。
 仕方なく神前は、諦めてサッサと部屋の奥に進んで行った。
「ほら、こっちに来てね。」
 拝むように、気弱な声で、そう言い出すのがやっとだった。
 
 二人は、そんな神前の様子に慌てて、言われた通りに、奥の方へ進んで行った。

 玄関から続くだだっ広い部屋の中は、がらんとした空間だった。家具や調度品の類が、全く置かれていない。おまけに天井も高い。
 恐ろしいほど、漠とした部屋の中に、良く磨かれた古いグランドピアノとソファだけがドカッと置いてある。そして、その奥に、姿見と譜面台が一本あった。
 その奥に螺旋状の階段があって、そのまま二階へと続いている。

「その辺の床に、楽器ケースと荷物を置いてくれるかな。」
 ようやく静まった二人に神前が話し掛けた。
 乱馬もあかねも、黙って言われたとおりに楽器ケースを床に置いた。
「まず、どうしようかなぁ。何から教えたらイイかな…。」
 神前はズブの初心者にヴァイオリンを教えるのは久しぶりだった。
「そうだな、まずは楽器の扱い方について教えとこうか。」
 そう言いながら乱馬のヴァイオリンケースに手を掛けた。
「あれえっ?」
 乱馬の楽器ケースの手応えに、神前は突拍子もない声を張り上げた。
「どうしたんだよ、神前さん。」
「このケース、やけに重たいんだよ。」
「へっ?」
「乱馬くん、きみ、ずっとこんなの担いできたのかい?」
 神前の意図している事がわからずに乱馬はきょとんとしている。
「ほら、あかねちゃんのと比べたら良くわかるよ。あ、やっぱり凄く重いっ。」
 そう、言うと神前は乱馬に同時に楽器ケースを持たせてみた。
「あーっ、本当だ。こっちの俺のケース、やたらに重たいぞッ。」
「だろう。まるで、BACHのトロンボーンやホルン、トランペットのケース並みに、いや、それ以上に重たいぞ。よく、こんな重たいもの、電車に乗ってやって持って来れたね。」
 BACHの金管楽器のケースはとても重い。中身の楽器よりケースの方ががっしりしていて、重量があるのだ。
「一体どうなってんだ?」 
 乱馬は自分のケースに手を掛けると、蓋を開けてみた。

 と、突然、楽器ケースの中から、何か物体が飛び出してきた。
「うわあっ、」
 乱馬も、側にいた神前も、そいつの勢いで、後ろに飛ばされた。
 その物体は、いきなりあかねの胸にに飛びついた。
「きゃあっ。」
「あっかねちゃ―ん。」
 上がる悲鳴に、思わず手が出た。
 ドカッ、バキッ。
 歪んだ音をあげながら、あかねはいきなり抱き付いて来た不埒な物体を、叩きのめした。
「げえっ、じじぃっ!」
 乱馬は、声を張り上げた。そして、あかねに叩きのめされた物体を両手で押さえ込んだ。
 神前が我に返って、目を上げると、そこには見覚えのあるじいさんが居た。
…確か、天道道場でいきなり水をぶっ掛けてきたじいさんだ。
 神前は、この間の日曜日の体たらくを思い出していた。
「じじぃ、どッから沸いて出やがったんだ?」
 乱馬は、捕まえた八宝斎に向かって怒鳴った。
「あーっ、てめえ、俺のヴァイオリンと入れ替わって、楽器ケースに忍んで来やがったのか。」
 良く見ると、楽器ケースにはヴァイオリンの姿形も無かったのだ。
「だって、だって、わしもあかねちゃんと一緒にここに来たかったんだもん。生い先短い年寄りをこんな目に合わせよって。いいんじゃ、どーせワシなんか。」
「どーせ、わしなんか、えっ、どうした?言ってみな。」
 乱馬は凄んで言った。
「あの、だからネ…。」
 乱馬の気迫に完全に押されて、八宝斎は黙ってしまった。
 乱馬は、八宝斎があかねに抱きついたことを真剣に怒っていた。女になった自分に抱きつかれるより、多分、不愉快だったに違いない。
「ったく、油断も隙もねえじいさんだぜ。」
 乱馬は神前に荷造りひもを借りると、八宝斎をふん縛った。
「どうするのよ、ヴァイオリンがなかったら、教えてもらえないわよ。」
 あかねが、困惑して言った。
「予備の楽器をいくつか、都からここに預かっているから大丈夫だよ。ほらこっちの物置部屋にね。」
 神前は、奥の物置部屋に乱馬たちを案内した。

 酒野と向井という、都の実行委員に予備にといくつか楽器を渡されていた。暁に少しと、天道道場に少し、楽器は振り分けられていたのだ。そして、倉庫が狭いオケの事情から、ここなら広いという理由で、無理やりムジカハウスに預かるハメになってしまったのだ。
「ちょうどいいや、こいつもこの中に押しこんでおこう。」
 予備の楽器を適当に選り出すと、乱馬は、八宝斎をその部屋にそのまま押しこんだ。
「いいの?おじいちゃんがあのままおとなしくしている訳ないと思うんだけど…。」
 あかねは、乱馬に耳打ちしたが、乱馬は
「いいの、いいの。逃げたらその時考えよう。」
 他に有効な手立ても思いつかなかったので、取合えず、乱馬の言ったとおり、八宝斎を物置部屋に押し込んで、神前に厳重に鍵を掛けてもらった。



五、

 八宝斎を物置部屋に押し込んだ後、気を取り直して、レッスンに取りかかった。
 「とんだエロジジイが乱入したよな。」
 「全くよ、こんな小さなケースに入り込むなんて、化け物だわ。」
 乱馬もあかねも八宝斎に憤慨している様子で、鼻息が荒かった。
 神前も二人の意見に同調していた。
 今まで二十数年生きて、いろいろな人に出会ってきたが、天道道場で出会った人々は破格であった。誠に不可思議としか表現のしようがないのだ。
 ヴァイオリンケースに忍び込む爺さん。お茶をすするジャイアントパンダ。天道家のペットだとしても、パンダが家中をウロついていること自体が常識を逸脱している。ペットといえば、大ブタを引き連れている美少女もいた。
 そして、目の前には男と女の両方にお湯と水で自在に入れ替わる乱馬がいる。
 おおよそ、今まで培ってきた常識を全部かなぐり捨てなければならないほど、訳のわからない変わった連中と関わり合ってしまった驚異。知恵熱でも出そうだな…と神前は思っていた。

「さて、今度こそ本当にレッスン、始めますよ。」
「宜しくお願いいたしまーす。」
 二人は声を揃えた。
「まず、ヴァイオリンケースを開いて。」
「はい。」
 二人同時に、ケースの蓋を開けた。今度はちゃんとヴァイオリンが入っていた。
「そしたら、肩当てをこうしてヴァイオリンに付けます。肩当ては、ここに用意しておきましたから、これを使ってください。」
 神前はゴムでとめる一番安価な肩当てを二人に手渡した。
「神前さんのとは、ちょっと違うんだな。」
「ええ、肩当てはいろんなタイプのものがありますからね。」
「私、肩当てなんてしているなんて知らなかったわ。」
 あかねがはしゃいで言った。
「ええ、長く弾き続けるには、肩当てがないと辛いんですよ。もちろん、肩当ては、音を吸収して、楽器が響かなくなると言って使わない奏者もいますが、君達には有った方がいいでしょう。」
「ふ―ん、いろいろあんだな。」
「肩当てを取りつける位置は、その人の体つきによって若干違いますから、後で調整してあげますよ。取合えずこんな風に付けておいてくださいね。」
 二人は、神前の真似をして肩当てを付けた。乱馬はすんなり取りつけられたが、あかねの方はもたもたしている。
「あかねちゃん、反対だよ、こうね。」
 神前は、穏やかにあかねを諭した。ええと、こ、こうね。」 
「うーん、ちょっと違うかな。」
「おまえ、不器用だな。」
 乱馬はもたつくあかねをからかった。
「うっさいわねぇ、集中できないから黙っててよ。」
 あかねは、不器用な手つきで一生懸命肩当てを取りつけた。
「肩当てを付けたら、ヴァイオリンはひとまずこうしてケースに入れておいて、今度は弓を用意します。」
「わあっ、弓って一本の糸だって思ってたけど、違うのね。いっぱい糸みたいなのがくっついてる。」
 あかねがまた、はしゃいで言った。
「これ、何の毛かわかるかな。」
 神前は二人に質問した。
「毛ってことは、動物だな。うーん、白い毛かあ。まさかパンダってことは無いよな。」
「そうね、白いけど、早乙女のおじ様の毛とは違うわね。」
「うん、親父の毛はもっと、ごわごわしてるし、こんなに長くねえもん。これがパンダの毛だったら、親父の奴血相変えるだろうな。」
 乱馬は父の玄馬パンダが逃げ回る様子を思い浮かべて言った。
「えっ!あのパンダって乱馬くんのお父さんなの?」
 神前は驚いて、叫んだ。
「あれっ、そうか、神前さんには説明してなかったけ。」
「ばかっ、あんたの事も内緒にしているくらいだから、早乙女のおじ様のことも内緒なのは当然でしょっ。」
「そっか、まずいこと言っちまったかな。」
「今更隠せないし、あんたの事も神前さんは知ってるから、話しちゃえば?」
「そだな。その方がすっきりするし、これから協力もしてもらいやすいよな。」
 乱馬はあらためて神前の方へ向き直って言った。
「神前さん、これから話す事は、誰にも言うなよ。あの、川出とかいったのおっさんにもな。」
「こらこら。おっさんはないでしょ。さんくらい付けなさいよ。」
 あかねがあわてて言った。
「うん、その川出さんのおっさんにも、内緒だぜ。」
 乱馬の言いかたが可笑しくって、思わず噴出しそうになったが、神前はぐっと我慢して言った。
「わかったよ、川出さんにも内緒にしておくから、乱馬くんの秘密、教えてくれる?」
 従来の聞きたがりの性格がむくっと神前の頭をもたげてきた。冷静を装っていたが、心はわくわくしていた。

「あのパンダ、情けねえけど、そう、俺の親父なんだ。」
「へえ、親父さんがパンダなの。いいな。でも全然君には似てないけど…。」
「乱馬はおじ様似じゃなくって、おば様似かな。」 
 あかねが口を挟む。
「あったりめえだ。あんな、ぶっさいくな毛無しパンダに似ててたまるかよ。」
 乱馬はあかねの言葉にむっとして言った。
「毛無しパンダって、ちゃんと立派な色艶の毛並みしているよ。君のお父さん。」
 神前は茶飲みパンダを思い出しながら言った。
「あ、いや、人間に戻ったときの話だよ。人間に戻ったら頭に毛が無いんだよ。つまり、その…ハゲなんだ。」
「あんた、随分な事平気でぽんぽん言うわねえ。仮にも自分の父親でしょ。」
 神前には、二人の話しがピンと来なかった。父親がパンダで、はげていると言われても、何がなんだか要領を得ない。
「ひょっとして、君のお父さんも、水やお湯で自在に変化するのかい?」
 そう、問いただすのがやっとだった。
「ああ、親父も俺とおんなじで、水を被るとパンダに変身して、お湯をかけると元の人間に戻るんだ。」
「ねっ。変わった親子でしょ。神前さん。」
 今度はあかねがいたずらっぽく笑った。
「俺だって、好きでこんなふざけた体質引きずってんじゃあねえぞ、こら。」
「でもさ、乱馬くん、君もお父さんも何でまた、水やお湯で変身してしまうんだい?」
 慌てて神前は言った。ここでまた口喧嘩が始まってもらいたくなかったからだ。そ
れに、神前は興味津々だった。
「話せば長くなるんだけど…。」
 乱馬はしみじみ自分の不幸の起こりを話し始めた。
「俺さ、天道家に居候する前、ずっと親父と武者修業の旅に出ていたんだ。中国大陸に渡ってあっちこっちで修行してさ、最後に親父に連れて行かれたのが、呪泉郷っていうとんでもない修行場だったんだ。呪いの泉の郷って書くんだぜ。」
「呪泉郷ねえ、ネーミングからして凄いね。」
「そうだろ。呪泉郷にはたくさんの泉が湧いていてさ、そこへ落っこちると変身の呪いがかかるんだ。」
「変身の呪い?」
「ああ、親父は熊猫溺泉に、俺は娘溺泉に落っこちて呪いがかかったんだ。以来、水を被ると親父はパンダに、俺は女の子に変身するふざけた体質になっちまったんだ。情けねえ話だろ。」
「その呪いをとく方法は無いの?」
 当然の疑問だろう。
「完全な男に戻るためには男溺泉に入ればいいらしいんだけど、なかなか思うようにいかないんだ。」
 そう言って乱馬は溜め息を吐いた。
「いつも、直前でフイになるのよね、乱馬は。」
 あかねが付け加えた。
 最初は面白がって聞いていたが、だんだん神前は乱馬が気の毒になってきた。男と女が入れ替わる体質なんて、想像以上に大変に違いない。
「ふうん、君も大変だね。パンダや女の子に変身させる泉かぁ。」
「俺たちだけじゃあないぜ、呪泉郷の被害者って。」
 乱馬はさりげなく言った。
「えっ?」
「ああ、現に天道道場の町内にはアヒルやぶ、あっいや、猫に変身する奴もいるし。それに、まだまだ、蛙や子供、牛みたいな化け物、阿修羅神、なんかに変身する奴もいるんだぜ。」
 思わず、良牙のブタのことを言ってしまいそうになったが、あかねの手前、慌てて止めた。あかねは良牙の変身の事は知らないからだ。
「君達の他にも変身人間がたくさん居るっていうのかい?」
 神前は絶句した。パンダと女の子に変身する男性が二人も居るだけでも凄いと思うのに、同じように変身する人間が世の中にゴロゴロしているなんて…。変身人間を量産する泉なんて、いったい何なのだろう。「そもそも、呪泉の泉は最初に溺れた者の姿形をコピーする呪われた泉なんだ。あかねは一度、新しい泉に突き落とされた事があるから、茜溺泉なんていう、変な泉も存在するくらいなんだぜ。」
「えっ、あかねちゃんに変身する泉?。じゃあ、そこに落ちたら、あかねちゃんに変身しちゃうの?」
 ますますもって、神前には捕らえどころの無い話になってきた。
「そうだよ。まあ、自分から好き好んであかねみたいな強暴女になりたいなんていう奴はいねえだろうけ…」

 ビシッ、バシッ!

 あかねの鉄拳が乱馬目掛けて飛んできた。

「イってぇー、何すんだよーっ。」
 乱馬は頭を抱え込んだ。
「悪かったわね!強暴女で。あんたみたいな変態に言われたくないわよ。」
「イテテテ…。誰が変態だって?」
 神前はあかねのドツキを目の当たりにして、正直びびってしまっていた。
「ほれみろ、神前さんが、引いてしまってんじゃあねえかよー。」
 乱馬はまだ頭を押さえている。
 この場を取り繕わなければ、と神前は焦ったが、うろたえてしまうばかりで、埒があかなかった。
 乱馬とあかねは睨み合っている。険悪な雰囲気だった。
「ったく、いってえなあ。だからおまえは強暴女なんだよ。少しは女らしくしろよな。女らしく。俺が恥ずかしいじゃねえか。」
「なんで、あんたが恥ずかしいのよ。」
「なんでって、おまえは俺の…。」
「あたしだって恥ずかしいわよ。こんな変態があたしの…。」
 と、二人はそれぞれそこまで言い掛けると、言葉を飲みこんだ。神前の視線を強く感じたからだ。

「あのう、ぼちぼちレッスンに戻りたいんですが…。」

 神前は、か細い声でそう語り掛けるのがやっとだった。
「あ、ごめんなさい。」
「わりい、わりい、つい、いつもの調子で…。」
 そう言って二人は顔を見合わせて笑った。

 全く、この二人、仲がいいのか悪いのか、神前には捕らえどころがなかった。
…この二人の関係は一体何だろう。
 ふと、そんな、疑問が神前の脳裏に持ちあがってきた。
…友だち同士、それとも恋人同士?
 どっちも当たらないのではないかと思った。
…もしかして、夫婦?
 まさか、高校生の二人がそこまでの関係を持てるはずは無いだろう。
 興味はあったが、二人に面と向かって、関係を問いただせるほど、神前は心臓がでかくはなかったし、下品でもなかった。



六、

「ううん。」
 まずは咳払いをして、神前は二人の前に立った。
「じゃあ、弓の扱い方から始めましょう。」
「はい。」
 ケースを開いてまずは弓を取り出す。
「あれっ。弓ってしまう時は緩んでるんだ。」
「ホント、毛がダランとしているのね。」
「いいところに気がつきましたね。そう、ケースにしまう時は、このくらい緩めてくださいね。そうしないと、弓の腰が抜けて、きちんと張る事が出来なくなるんです。」
「はい。」
「逆に、本体に張ってある弦は絶対、緩めないでくださいね。」
「えっ、弦は緩めちゃいけないんですか?」
 神前は乱馬のヴァイオリンを取り上げて、かざしながら説明した。
「ほら、このF字孔から中を覗いてごらん。ちっちゃな鉛筆くらいの太さの柱が立っているでしょう。」
「あっほんとだ。」
「あるある。」
 乱馬とあかねは頬がくっつきそうな距離で覗きこんだ。軽く髪の毛が触れ合うと、どちらともなく身体が反応して離れた。密着しすぎてお互いドキッとする。
 そんな様子をにこやかに見ながら神前は説明を続けた。
「あれは、魂柱(こんちゅう)といってヴァイオリンを支える要の役割をしているんです。弦を全部緩めると、あれが倒れてしまう事があるんですよ。」
「倒れたら、どうなるんだ?」 
 乱馬が訊くと、
「魂柱が倒れたら、ヴァイオリンは音が全く出なくなるんですよ。それに、弦を緩めたら、この駒の位置もずれてしまって、もう、大変な事になりますからね。」
 本当は、駒が倒れたりして外れると、魂柱が倒れてしまうことが有ると表現した方がよいだろう。魂柱が倒れると、楽器屋に持って行かなければ、まず直らない。魂柱の立っている位置は、プロの職人にちゃんと調整してもらわないと、全く違う音色の楽器になってしまう。ヴァイオリンの音色の良し悪しを左右するほど魂柱は大切な要(かなめ)なのだ。それだけに倒れるうと本当にややこしい。
「へえ、案外ややっこしい事があるんだな。あかねっ、ちゃんと憶えとけよ。」
「何よ、人を馬鹿みたいに言わないでよね。」
「まあまあ…。」
 二人が喧嘩を始めないように、すぐさま神前は口を挟みにかかった。
「それじゃあ、弓を張ってみましょうか。」
 そう言って、神前は今度は自分の愛用の弓を手に持った。
「弓は、張りすぎてもダメだし、緩すぎてもダメなんです。見て。ほら、弓の真ん中で。弓の太さと同じくらいに張るのが基本です。」
「えっ、どうやって張っらいいんだ?」
「この下のネジを回すんですよ。ほら。」
「あっ、これね。」 
「あーん、あたしのかたいーっ。」
「あっ、こら、あかね、そ―っとやれ。力入れてると壊しちまうぜ。」
 二人して大騒ぎだった。長く使われていない楽器みたいだったので、ネジが硬くなっていたようだ。
 やっぱり、あかねは乱馬の数倍不器用だった。乱馬はすんなり張れたのにあかねはぐずぐずしていた。

「ああ、もう、見てらんねえよ。貸してみろよ。」
 あかねがあんまりもたついているので、乱馬が横から手を出してきた。
 あかねも、壊すといけないので、今度はおとなしく乱馬に従った。
「あっ、ホントに硬てえや。」
 壊さないように、力を調整しながら、乱馬はあかねの弓を張ってやった。
 
「そうそう、そのくらいかな。弓が張れたら、今度はこの松脂(まつやに)を塗りつけます。」
「えっ、松脂?そんなもの塗るのかよ。」
「知らない事だらけねえ。」
「これも、加減が難しいんです。つい、たくさんつけたくなるんですけど、付けすぎは禁物。弦がざらついて音質が悪くなるし、楽器にも松脂の粉が落ちて良くないんです。」
 手馴れた様子で、神前は自分の弓に松脂を塗っていく。
「こうして、松脂を左手で持って、右手で弓をゆっくり上下に動かして塗ります。五往復くらいが理想かな。終わりに、上の方と下の方を二、三回ささっと余分に塗っておきます。」
「うへっ、松脂って、独特な臭いだな。」
「もう、動物みたいに臭いを嗅がないでよ。みっともない。」
 乱馬は神前の言ったとおり、すんなりと松脂を塗れた。しかし、やっぱりあかねははもたついている。
「あっ、そんなに力入れると、弓が折れるぜ。ほらっ、こんなに弓がたわんでるじゃあねえか。」
「わかってるわよ。」
「そーっとやれ、そーっと。おまえはそーっとやって、ちょうどいいくらいのバカ力なんだからな。」
「……。」
「おいっ、ほら、乱雑にするから、毛が一、二本抜けちまったぞ。」
「……。」
「今度はきしんだ音がしてるぞ。注意しろよ。」
「……。」
「あーあ、松脂欠けちまったぞ、割るなよ。」
 乱馬は横からごちゃごちゃ言い続けている。あかねは無言で弓を睨みながら頑張っている。傍から見れば不器用な彼女に一所懸命世話を焼く彼氏。
…口は悪くても、乱馬くんはあかねちゃんのこと随分大切にしてあげているんだな。
 傍らで二人の様子を見ていると、つい、微笑ましくなってしまった神前だった。
 それにしても、あかねちゃんの不器用さは相当なものだな…と神前は目を見張った。
 女性というものが皆、器用だという訳ではないだろう。それにしても、彼女の不器用さは一種独特の世界を構築しているようだった。
 乱馬が心配して、横からとやかく口を出してしまう気持ちが、神前にはわかるような気がした。
 それにしても微笑ましい光景だ、そう思ったとき、

 バキッ!べきっ!

 何かが、壊れる音がした。

「あーあ。やっちまった!」
 乱馬が思わず叫んだ。
 神前がその声に顔を向けると、無残にも真っ二つの折られた弓が目に入ってきた。
 あかねが、それを持ったまま呆然としていた。
 神前はそんなあかねの情けない顔を見て、
「古い弓だったみたいだねえ。ネジも硬くて動かなかったようだし…。大丈夫。楽器はたくさんあるみたいだから、あ、弓ももちろんね。少々派手にやったところで、落ち込まないでいいですよ。誰だって失敗はありますよ。」
 とそう、フォローに走った。でも、神前もすっかり焦っていて。何を口走っているのか、実は自分で把握していないのだった。目の前で弓が折れる光景は彼にも生まれて初めてだった。
「失敗っつったて、普通折れるかぁ?こんな物。」
 乱馬は呆れ果てたように言った。
「折れることは、珍しいかな…。あ、で、でも、お、終わったことは言っても仕方がないから、前向きに考えましょう、乱馬くん。」
「そうだな。うん、言ってても始まらねえや。」
 神前の言葉に妙に納得する乱馬。
「そうそう、そうです。乱馬くん悪いけど、物置に行って新しい弓を持ってきてくれますか?どれでもいいですから。」
「いいよ。取って来るよ。」
 そう言って乱馬は弓を取りに行った。

 あかねは弓を折ったショックからなかなか立ち直れずにいた。すっかり放心状態。
 本人としては、細心の注意を払っていたつもりだった。でも、ちょっと力が入りすぎて、気づくと折れてしまっていたのだ。あかねはとにかく、自分の粗忽さが情けなかった。
 弓は折れてしまい、毛が中途半端にぶら下がっていた。
 神前は、乱馬が行ってしまった後、どうしたものかとオロオロしていた。
 たまに、本当にごくたまあに、湿気や気温の激しい変動などに起因して、弓の毛が先からバッサリ抜け落ちることはある。また、ある女流ヴァイオリニストの母は娘を教えるのに力が入って何本も弓を故意に折って叱り飛ばしたという逸話もある。しかし、故意に折るのではないのに、真っ二つに折れる事など聞いたことも見たこともない。
「ほら、今度は折んなよ。ホント、おめえは世話が焼ける奴だなあ。」
 戻ってきた乱馬があかねに声をかける。
…だから、おまえには俺がついてなきゃダメなんだ…
 心でそう呟いた。
「おいっ、早く始末しろよ。いつまでもしおらしく黙ってたって似合わないっぜ。」
 こんな、あかねの扱いは、神前より、数段乱馬の方が上手かった。神前はただ、オロオロするだけで前へ進めない。そう、神前はどうしたものかと思案に暮れて、情けない事に、あかね以上に固まっていたかもしれない。

 それでも、あかねはなかなか立ち直らなかった。
「仕方ねえなあ。諦めるのかよ。ヴァイオリンの憧れてたんだろっ?こんな事くらいで落ち込んでたら、身にはつかねえぜ。どうせ馬鹿力のお前のことだから、本番までに何本かの楽器と弓を壊すって。」
 乱馬はあかねをポンポンまくし立てる。それでも慰めているつもりだからおかしいのだ。
「もう、黙って聞いていれば、馬鹿力、馬鹿力って。」
 乱馬の悪態に、ようやくあかねは口を開いた。
「ほら、さっさとしなよ。神前さんが困って固まっちまってるぜ。」
 あかねは、我に返り、神前を見た。確かに困惑しきった様子で二人を見ていた。
「ご、ごめんなさい。神前さん。弓折っちゃって。これからはもっと気をつけます。」
 あかねは直立不動になってそう言うと、ペコッと頭を下げた。
「あ、ああ、今度からはもっと丁寧に扱ってくださいね。」
 あかねに頭を下げられて、神前はもっとドキマキして愛想笑いをした。よく見れば、顔が相当引き攣っていたに違いない。他に人がいなくって良かったと思った。

 あかねは乱馬に手伝ってもらいながら、再び弓を張り、松脂を塗りつけた。
「じゃあ、弓の持ち方から、始めましょう。」
 二人は真剣に神前の言う事を聞いて、手つきを見ながら、一所懸命、真似をした。
「うへっ。案外、難しいもんだな。」
 乱馬の実感だった。なかなか、上手く神前の真似が出来ない。
「ほら、見て。右手の弓を持つ手は、基本的には指が均等に丸くなってなくっちゃいけないんです。でこぼこがあったり、指が突っ張って伸びたりしてはいけないんです。」
 何度も何度も神前の手本を見ながら二人は頑張った。
「うーん、弓はね、持つものではないんです。あくまで、支えるだけ。右手には余分な力を入れてはいけないんです。手首が硬いと柔軟な動きが出来ず、早いパッセ―ジが弾けないし、イイ音も出ません。」
 神前はだんだん声が上擦っていた。彼もいっぱしの音楽家。ヴァイオリニストの端くれだった。自然、言葉に熱がこもる。
「ほら、親指も丸くして、この、馬の毛が親指の爪の下辺りにかすかにつくぐらいの感覚で丁度いいんです。そうすれば自然に親指が丸くなりますよ。」
 乱馬もあかねも必死だった。喧嘩する余裕もないほど集中していた。
「常に力が抜けて、さらにまあるく持つためには、そうだね、猫の手のイメージで持ってください。」
 神前がそう言うと、
「えっ、ね、ね、ねこぉっ!?」
 一瞬乱馬が過剰に反応した。
「猫のイメージじゃなくって、他の動物じゃダメかなあ、神前さん。」
 乱馬はすぐさま、神前に問い返した。顔は笑っているけれど、頬っぺたは明らかに引き攣っている。
「それは、まあ、猫と同じような柔らかくて、丸い手のイメージの動物なら何でもかまいませんよ。あくまで、イメージですから…。」
 何か焦っているふうにもとれる乱馬の反応を気にしながら、神前は答えを返した。
「そ、そうだよな。単なるイメージなんだもんな。うん。別に猫や犬がヴァイオリンを弾くわけじゃねぇしな。」
 一人で納得している乱馬に、
「そうです、まあ、狸でも狐でも何でもいいですから、力を抜いて弓を持ってください、ということです。」
 と神前も調子を合わせる。
 ひょっとすると、この二人、案外、気が合うのかもしれなわね…隣で神前と乱馬の会話を聞きながら、あかねはくすっと笑ってしまった。
「なんだよー。あかねっ。何がおかしいんだよー。」
 乱馬は、あかねが笑っている事に気付いて、少し不機嫌そうに言った。
「別にぃ、ちょっとね。」
「たく…。おめえに笑われたかねえよ…。不器用なおめえに。」
「何ですって?」
 
 神前は、慌てて、二人の間に割って入る。
…この辺で止めなきゃ。
 年長者らしく、いや先生らしく毅然とした態度で臨まないと、この二人のペースに飲み込まれる。
 「ほら、弓が持てたなら、今度は左手で楽器を持ってみましょう。」
 二人が口喧嘩をする隙を与えないように、間髪入れずにまくし立てはじめた。
 とにかく、先に進んで、レッスンを進めなければなるまい。こんなところで脱線するわけにはいかないのだ。




つづく




一之瀬の音楽用語基礎知識〜その3
ここに掲載してあるヴァイオリンの基本構造、調弦方法、練習法は事実です。
私はヴィオラ弾きですがヴァイオリンとたいして変わりません。ただ、ヴィオラは、楽器が重い分、如何に長時間弾き、鳴らしにくい音を鳴らすかという命題がヴァイオリンより厳しいので、身体の余分な力を抜くこと、これに終始した奏法を用います。
事実、我が息子がかつてヴァイオリンを習っていた頃はしっかり半年間、楽譜を読む前にボーイングやらされてました…私も某音大の講師に弟子入りしていた5年間はほとんどボーイングとスケールに明け暮れていたような…
それも必ず鏡の前で練習させられます。レッスンに行けば必ず姿見があるんですよ。睨めっこして弓が正しい位置にくるかどうか常にチェックします。
ヴァイオリンを弾く前には、まず松脂をつけます。(弦楽器は全てそうです。楽器によって使う松脂のきめ細かさは違いますが)
弓に張ってあるのは馬の尻尾です。これはプロだと数ヶ月置きに張り替えます。(私はここ数年そのまんまです…ぼちぼち張り替えないといけないんだけど…)
それと、ヴァイオリンは実音で譜面を追うために、ドレミ音階は使いません。ドイツ音名で聞き分けます。
ついでに申せば、弦楽器(オケなど)では、A線をだいたい443HZ(場合によっては442HZ)に調弦します。普通の家庭や学校にあるピアノは基調となるト音記号の真ん中の「A(ラ)」は338HZで調律します。弦楽器奏者の家にあるピアノは442HZで合わせてあるのが常です。はい。
どうして、学校のピアノや家のピアノが低いかというと、歌の伴奏に使うことがあるからと言われています。歌うたいにとっては、一ヘルツあがると、相当な苦痛が伴うそうで…。歌の場合は、338HZくらいがベストなのだそうです。
以前、辻久子さんがソリストの合奏に参加した時がありますが、マエストロは445HZを所望されました。もう、管楽器の皆さんがひいひい言っていたのを今でも覚えています。(アマチュアに要求して欲しくないかも…)
音を拾うときはピアノがなければチューナーという機械や442HZの音さを使います。他の弦は耳で調弦します。これも慣れてくると正しいかそうでないかわかります。
ヴァイオリン奏者をはじめ、弦楽器奏者はボケにくいと言われる所以です。





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