春風のオーバーチュア
#1 愛の挨拶(その1)
一、
春の霞がうっすら、掛かるうららかな日だった。
あかねは、朝からうきうきとしていた。風邪の方もやっと抜けきったようだった。
いつもの朝の食事が終わって、一人、出掛ける準備をして、二階から降りてきた。
「あら、あかねちゃん、ご機嫌ね。」
あかねの様子を見て、かすみが声をかけた。
「そっか、今日は、暁町へ出掛ける日だったわね。でも、あんたも物好きね。今からヴァイオリン始めるなんて。」
座って食後のお茶を飲みながらなびきが言った。
「あかね、一人で出掛けるのか?父さんは心配だぞ。」
朝刊をがさつかせながら早雲が言った。
「大丈夫よ。もう、子供じゃないんだから…。」
困惑気味にあかねが言う。
「でもな、男の人がたくさん下宿している家に直接行くんだろ?父さんが付いて行ってやろうか?」
「よしてよね。そんな恥ずかしい事。」
「でもね、あかねちゃん、男の人がたくさんいるお家に一人で出掛けるのはどうかと思うわ。」
「かすみお姉ちゃん。心配無いよ。ただ、レッスンに伺うだけなんだから。」
「あかねは強いから平気よ。」
「どう言う意味よ、なびきお姉ちゃん!」
すまし顔で言ってのけたなびきにちょっとむっとしてあかねが言い返した。
「そのまんまよ、そのまんま。あかねなんてまだガキよガキ…。」
相変わらず、突き放したようになびきが答えた。
「レッスンっつったてなあ、あかね。本当に大丈夫なのかな。おまえに何かあったら父さんは死んだ母さんに合わす顔が無いんだよ。」
あかねは、お茶を飲み干すと
「ほんとしつこいんだからお父さんは…。遅くならないうちに帰ってくるから…。」
そう言い残すと、あかねは茶の間を出ていった。胸にヴァイオリンケースを抱えて。
「あ、あかねー。あかねちゃんーっ。」
早雲は情けのない声をあげた。
「父さん、ほんとに心配性なんだから。大丈夫よ。何もお父さんが付き添わなくっても、あかねを一人でほっとけない奴に任しておいたらいいって。」
なびきは父を諭して言った。
「えっ?ほっておけない奴?わかる?早乙女くん。」
「パホー。(奴か?)」
玄馬はパンダの形で看板を掲げた。
「そっ、彼。」
「あはっ、そうか、彼か。彼ねえ?」
ひとしきり頷いておいて、
「で、彼って誰よ、早乙女くん。」
「パア(さあ?)」
「あーあ、ダメだこりゃっ。」
なびきは額に手を当てながら、その場に沈み込んだ。
あかねが玄関を出ると、黙って乱馬が待っていた。ちゃんとヴァイオリンケースを持っている。
「えっ、乱馬、何?」
「何って、俺も行くんだよ。」
あかねには意外な答えだった。
「なんでついて来るのよ。」
「おまえみたいに不器用で可愛くねえ女、一人でほっとけないだけだよ。わざわざ付き合ってやるんだから少しは感謝しろよな。」
「何よ、頼んだ訳じゃないわよ。」
「バカ、頼まれたんだよ。」
「誰に。ひょっとしてお父さん?」
「おまえにだよ。」
「はあっ?いつ私があんたに頼んだのよ。」
「……。」
暫らく沈黙が続いた。
…やっぱ、こいつ、あの夜の事覚えてないようだな。
乱馬は少し複雑だった。あの夜、あかねは熱にうかされていたから、あんなにも素直だったのだろう。ヴァイオリンを選択して、ペアを組む事を約束したことなど、あかねの記憶にはないようだ。
「おまえ、何にも覚えてないんだな。」
つい、そんな言葉が吐いて出た。
「覚えてないって?何訳わかんないこと言ってるのよ。」
「あ、いや、いいんだ。それよか、急がねえと、約束の時間に遅れッちまうぞ。」
本当はあかねは、一人で行くのが不安だった。だから、乱馬が着いて来ると言い出してくれてホッとしていた。でも、いつもの勝気さで、おくびにもそんな素振りは出さなかった。
…でも、あたし、何か乱馬とあったのかなあ?
どう、考えても、思い当たる事は無い。あかねはあかねで、あの夜の事は夢だと認識していた。柔らかい乱馬の大きな手と暖かい瞳。それらはあかねには現実として記憶されていないのだ。
「ほんとに、おまえは可愛くねえな。」
しみじみ乱馬は言い放った。
「なによ、喧嘩売ってるの?」
「別に。」
そう言うと、たっと駅に向かって駆け出した。朝の光をたくさん浴びて。
…まあいっか、覚えられていたら、ちょっと厄介なこともあるしな…。
乱馬は寂しいような良かったような複雑な気持ちだった。
あの熱に浮かされていた夜のあかねの弱々しさ、可愛らしさ。思い出すと背中がくすぐったくなる。思わず、キスした柔らかな唇。ずっと夜が白むまで見守りながら居たあの日の記憶。
春風を切りながら乱馬は駆けた。
二、
暁町に行くには、電車で五つ目。
あかねと乱馬はヴァイオリンケースを抱えたまま、電車に揺られていた。話すと喧嘩になりそうで、二人とも並んだままずっと黙り込んでいた。
ラッシュアワーはとっくに終わり、座席はゆったりと座れた。
車窓からは、春の風景が、のどかに広がっている。青空に所々、さくらの木々が咲き始めている。三分咲きといったところだろうか。
黙ったまま、電車に揺られていると、気持ち良くなって、ついつい、舟を漕いでしまう。
乱馬も例外ではなく、一定のリズムに、心地よい眠りに誘い込まれてしまっていた。
どのくらい時間が経過したのだろう。たかだか五つ目の駅だからものの十分くらいのまどろみだろう。
ふいに、あかねに横腹をつつかれて目が醒めた。
「何だよ。」
「次。次よ暁町は。」
「え、あ、そうか。」
乱馬は慌てて目をこすった。
「で、どうするの?」
あかねが乱馬を見据えて言った。
「何が?」
「だから、そのまま男の姿で行く気?」
あかねは、乱馬の体裁にこだわっているようだった。
「このままでいいよ。変身するのも面倒臭えし。」
「でも、一応。早乙女乱子って、エントリーされてしまったんだから、男のままじゃまずいんじゃあないの?」
「いいっていいって。まだ、暁の人達に面識は無いんだから。それに、神前さんだっけ、俺の正体ばれちまったからな。」
「でも、川出さんが居たら、どうすんのよ。あの人知らないんでしょ。あんたの事。」
「ま、そんときゃ、水でも被るよ。」
「んー、もう、あんたってば。ほんとにいい加減ねえ。」
「仕方ねえだろ。俺だって好きで女に変身するんじゃあねえんだからな。」
「そう?この頃やけに嬉しそうに女に変身しているみたいよ…。。」
「何おッ。俺はもともと、お・と・こ・なんだ。女なんかに、なりたかねえんだ。」
「女になった方がいいと思うけどな…今日は。」
「しつこいなあ、おれがヤダっつうたら、ヤなんだよ。男でいいんだ。」
乱馬はついつい、ムキになってしまっていた。
「ちょ、ちょっと、声がでかいわよ。恥ずかしいじゃない、自重してよね。」
あかねが思わず言い含めた。
「……。」
確かに、周りの人々の視線が全てこちらに注がれている。「目が点」状態で、こっちを見ていた。
なんて、バカな事を口走っているんだろう。普通の人間が聞いたら確実に変態だと思われるような会話に違いない。
ちょうどその時、電車のスピードががくんと落ちて、暁町駅のホームに滑り込んだ。
二人は慌てて、立ち上がり、人々の冷たい視線を避けるように、扉が開くと同時に、外へと飛び出した。
「もう、大きい声で、恥ずかしいんだから乱馬は。」
「うっせえな、話題を振ってきたのはそっちだろ!」
人が居なくなると、やっぱり、喧嘩口調になってしまう二人だった。
自動改札を抜けて、駅前に出た。さて、どっちの方向に向かって歩き始めれば良いのだろうか。
「おいっ、ちゃんと、辿り着けるんだろうなっ。」
「地図ならほら、ちゃんと持ってるわよ。」
あかねは紙切れを広げて見せた。
「地図持ってても、迷う奴だっているぜ。」
そこまで言って、乱馬はふと良牙のことを思い出した。
そういえば、ここのところ良牙もPちゃんも見掛けない。座薬騒動の晩に天道家を飛び出して行ったままだった。
…あのど方向音痴、今ごろどこをさ迷ってんだろう。
「乱馬、ほら聞いてるの?早く来ないと置いてくわよ。」
「え、あ、うん。」
あかねが一歩先で振り返った。
「地図によるとこっちね。」
あかねは、鄙びた商店街に向かって歩き始めた。
「大丈夫だろうな。迷うなよ。」
「何よ、人を良牙くんみたいに言わないでよ。」
「つんつんしてると、怪獣みたいだな。」
「あんた、あたしに喧嘩売ってんの?」
「いや、俺はほんとの事言っただけだよっと。」
「もー、乱馬のバカっ。」
「おっと、ちゃんと地図見てないと、迷うぜ。」
「一本道よ。この先は、ずっとまっすぐ。」
「じゃあ、ここまでおいでっと。」
先に乱馬が走り始めた。
「待ちなさいよ、この卑怯者。」
「やだよ。」
この二人、実は仲が良い。痴話喧嘩は犬も食わない。それを地でやっていた。
まっすぐ、走って行くと、突然こんもりとした木立が見えてきた。そして、町の風景が一変して、そこだけ時に取り残されたような空間が現れた。
その前まで来ると、ふっと、乱馬は足を止めた。あかねもつられて立ち止まった。
「なかなか、年季の入った建物だな。」
うっそうとした木立の中に、古びたレンガ造りの洋館が建っていた。
「あっと、ここよ。」
傍らからあかねが声をかけた。
「ふうん、なかなか凄いとこに住んでるんだな。」
「うん。」
天道家の近所にはこんな、古い洋館は無い。勿論、天道家も古いと言えば負けてはいないのだろうが、純日本家屋に馴染んでいる二人には、ここは、別天地のように思えた。
だからかもしれないが、二人は足を止めたまま、なかなか入って行く勇気が出ない。
どのくらい、道端で佇んでいただろうか。
「とにかく、ここに突っ立てたって始まらねえ。中へ入ろうぜ。」
「そうね、インターホンもないみたいだし、直接玄関先まで行くしかないわね。」
いつまでもそこに居るわけにもいかず、ようよう、二人は中へ入る決心をした。
大掛かりな決心をしなければならないほど、この建物は荒んでいた。決して、荒れ果てている訳ではないのだが、武道家の直感と言ったものが乱馬に何かを知らせているように思えた。この後、その直感は現実となって乱馬とあかねに振りかかってくるのだが、それはまだ先のことだった。
三、
「待って、乱馬。あたしが先に行くわ。」
あかねは先に門を入ろうとした乱馬を制した。
「ん!?」
「だって、川出さんが居たら、ヤバイじゃない。あんた、女としてと通さなきゃいけないんでしょ?」
確かにそうだ。神前には、乱馬が男だと言う事は、ばれてしまったが、同居している川出は、乱馬を女だと認識しているはずだ。神前にはばれた時に、他言しないように何度もお願いしてあった。約束を破るような男には見えなかったので、川出にも事情は説明していないだろう。
人のよさそうな神前はともかく、川出に正体がばれたら…。相手は未知数だ。
「それもそうだな…。でも、おまえさあ、大丈夫か?門だってこんなにガタが来てるんだぜ。」
「大丈夫よ。」
「その門、壊すなよ。」
「いちいち、気に障ること、言わないでよ。」
あかねは、恐る恐る手を門にかけた。傾き掛けている錆びついた鉄門は、ギギーっときしんだ音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
「重たいわ。」
あかねはよいこらしょという感じで門を開けて中へ入った。
外からは塀で見えなかったが、思いのほか、庭は手入れされているようだった。雑然としてはいたが、草は伸び放題ではなく、木々の枝はきちんと剪定されていた。季節柄、庭先には花が咲き始めていた。
「結構、広いんだなあ。」
あかねに続いて、乱馬も敷地に入ってきた。
「おっ、おあつらえ向きに、池まであるぜ。」
「ほんとだ。」
庭の片隅に、洋風の池があった。ご丁寧に小便小僧まで、佇んでいる。
「乱馬、わかってると思うけど、川出さんとか他の人が居たら、その池の水被って、女に変身しなさいよ。」
「…そだな。ここしか水がねえもんな。」
そうは、言ったものの、極力この苔むした色の水にの世話にはなりたくないと乱馬は思った。
…外出してろよー。川出のおっさん。
つい、そう念じていた。
「いいわね、いくよ。」
そう言って、あかねは大きな一枚扉をそっと、少しだけ開けた。
「ごめんくださぁーい。」
あかねの少し甲高い声が、扉の奥に吸い込まれて行った。
「あのう、どなたかいらっしゃいませんかあっ。」
暫らく間を置いて、奥から人の気配がした。
乱馬はいつでも変身できるように、苔むした池の端に立っていた。
「はあい。」
奥から出てきたのは神前だった。
「ああ、あかねちゃんだったかな。待ってたよ。遠いのに良く来たね。」
愛想の良い、声であかねを迎え入れようとした。
「あのう、川出さんや他の人は?」
「ああ、みんなここの連中は仕事に行ってるよ。それがどうかしたの?」
「よかった。」
そう言うなり、あかねは後ろを振り返って、声を掛けた。
「大丈夫よぉっ。乱馬。神前さん以外みんなお留守だって。」
「助かったぜ。」
これで、この汚い水に世話にならずに済んだ。乱馬はほっとした。
「ほら、乱馬。御挨拶。」
あかねが促がすと、
「あ、あの、こんにちは。」
と慌てて、乱馬はそれに答えた。
「乱馬くん、やっぱり君も来たのかい?。」
乱馬の顔を見つけて、内心、神前はホッとした。
実は朝から、川出や他の連中に安請け合いしたレッスンの事で、いろいろ言われていた。やはり、女の子をこの家に招き入れる事に、抵抗があったらしい。
とにかく、あかねだけでなく、乱馬がいれば様子が少しは違ってくるだろう。それに面として女の子と二人きりになるのは、神前は気が引けた。
「いらっしゃい。二人仲良く来てくれたんだね。」
神前は、改めてにこやかに話し掛けた。
「あ、あの、二人で来て、ご迷惑じゃあ、ありませんか?」
あかねが尋ねると、
「どうして?」
「だって、お言葉に甘えて、二人も押しかけたら…。」
「いいよ。音楽を好きになってくれる人は、一人でも多い方が、教える方も遣り甲斐があるから…。」
「ありがとうございます。」
あかねは、ぺこりとお辞儀した。
「なに、いい子ぶってんだよ。」
横から乱馬がチャチャをいれた。
「これから、教えていただくんだから、礼儀でしょ。」
「礼儀ねえ。おめえには似合わねえな。」
「何よ、あんたこそ無神経なんだから。」
「へんっ、おめえより、神経は繊細だぜ。」
「あんたのどこが繊細なのよ。」
「なんだとーっ」
乱馬は少し虫の居所が悪かったかもしれない。ウキウキ状態でここへやって来たあかねに、微かだがヤキモチを妬いていた。
そんなだから自然と受け答えはツンケンドン。
あかねも乱馬の挑発にはすぐに乗ってしまう。
いきなり、神前の前で喧嘩が始まった。
…この二人、いったい、どんな関係なんだろう?
目の前で始まった激しい言葉の応酬に、気をとられ、不思議に思ったが、慌てて、二人の喧嘩を止めに入った。
「あのさ、それくらいにして、どうぞ。中へ入ってよ。」
睨み合っている、目の前の二人に、神前は話しかた。
「あ、ごめんなさい。つい、いつもの調子で…。」
先にあかねが折れた。
「そうそう、いつもの調子でおめえの方が謝れば許してやるよ。」
乱馬は、まだ、憎まれ口を叩いている。
「何ですって?もう、乱馬のバカっ。」
このままじゃ、キリがない。
「おいおい、そこらへんにしておいてくれないかな。」
神前は困惑顔を突き出して、ドアの中へ二人を強引に招き入れた。
つづく
一之瀬の音楽業界用語の基礎知識(その3)
オーバーチュア(OVERTURE)
日本語に訳せば「序曲」です。
オペラやバレエなどの劇場音楽などの幕が上がる前に演奏する為に書かれた楽曲の事をさします。
組曲の最初の音楽をいうこともあります。
ベートーヴェンのフィデリオ序曲やレオノ−レ序曲など、オペラそのものは殆ど演奏されないで序曲だけ残った曲も少なくありません。個人的嗜好を言わせていただければ、やっぱりオペラはワーグナーかな…いや、リヒャルト・シュトラウスかも…。
私はあまりオペラ・オペレッタは得意分野じゃありません…(汗…いまだよくわかってません。(どっちかというと交響曲派なもんで…)
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