#4 げに恐ろしきもの…
一、
「うわっ、いけないっ!!もうこんな時間だ。」
神前は何気無しにリビングの置時計を見て、驚きの声をあげた。そう、五時半前だったのだ。
ぼちぼち練習場に行かなければならない時間だった。
「日向さん、沙耶さん、もう練習場に行かなきゃならない時間です…。悪いんですけど、夕食用意してあるから、適当に食べておいてくださいね。」
「もう、そんな時間ですか…。」
日向が苦笑した。コンサートマスターの責務(雑務)を果たさなければならない神前は、真っ先に練習場入りしなければならない。そう、今日は初見大会の日だった。
初見大会。
今日、次回の演奏会演目の楽譜を一斉に配る。そして、その場で練習開始。暁オケの名物「初見大会」である。
「ちゃんと身体を拭いて、着替えてくださいよ、日向さん。風邪でもひいたら大変ですからね。」
「わかってますって、僕だって、子供じゃあないんですから。」
「着替え取って来てあげましょうか?」
「そのくらいは、自分でやりますから、君は早く行く準備をなさい。」
日向は苦笑いを浮かべながら言った。
音楽のことしか頭に無いこの青年指揮者は、その容姿とは裏腹に、案外無頓着であった。この家で賄いをやっている神前は、彼の生活習慣や性質をちゃんと見抜いていて、一言、進言したのである。
「沙耶さん…。お願いしますね…。」
「任せておいて。あとは私が良しなにしておきます。」
沙耶は柔らかく笑って見せた。
沙耶は日向のマネージメント一切を引き受けている、音楽事務所の若手社員だった。山ノ内沙耶。年は二十五歳。神前より二つばかり年上だった。
神前はこの女性にある一定以上の好意を持っていた。あえて下賎な言葉を借りるなら「片想い」していたのである。勿論、人知れずにである。
沙耶の笑顔を伏目がちに見て、神前はにっこりと笑った。
兎に角、六時までには練習場に着いておきたい。今日配る楽譜のコピーなどの雑務が、神前を待ち受けていた。
「ありがとう、沙耶さん。」
神前は礼を述べると、外に出ていたらんまに向かって声を掛けた。
「らんこちゃーん、練習場に行くから、早く着替えちゃってくれる――っ。」
「は――い。」
らんまは元気良く返事をすると、着替えに取り掛かった。
まず、八宝斎にムリヤリ取り付けられたブラジャーをはずしにかかった。しかし、身体に食い込んでいて、上手く腕が後ろに回って、ホックをはずすことが出来なかった。
「くっそー、ジジイめっ。とんでもない物つけやがって―っ。」
らんまはブラジャーをはずしてしまいたかったが、ふと、窓の向こうの日向と目が合った。
日向は別に、らんまを凝視していた訳ではなかったが、らんまは、ここでブラジャーをはずしてしまうことが、不自然に思われるのではないかという危惧を持ったのだった。そう、普通の女の子なら、ブラジャーくらいはいつも着用しているのが当たり前だ。ノーブラになることで、自分の正体がばれるのではないかと、変に気を回したのだった。
「ちぇっ、この場は、このままで居た方がいいのかな。」
らんまは、ブラジャーをとるのを諦めて、その上から、チャイナ服を着ることにした。
「乱子くんと一緒に練習場に行くんですか?」
日向の顔は、神前の言葉に微妙に反応して、少しだけ引き攣っていた。疑いは晴れたものの、何か釈然としないものを彼女に感じ取っていた。音楽家の勘とでもいうものだろうか。
「ええ、向こうで、彼女の連れたちと落ち合う事になっているんですよ。僕が連れて行ってあげなきゃ、乱子ちゃん、場所もわかんないでしょ?」
神前は、支度をしながら答えた。
「それから、乱子ちゃんとあかねちゃんには今度の演奏会に、のってもらおうと思ってるんです。」
「は?」
「だから、この前電話でお話した件ですよ。一曲でいいから、天道道場の方にも参加してもらおうって…。」
神前は日向を向いて言った。
「そんなこと言ってましたっけね…。で、その、乱子くんも練習に参加するんですか?」
「楽器はまだ弾けませんけど、暁に慣れてもらうのもいいかなって思って、練習に誘ったんです。彼女、筋がいいですよー。さすがに一流の格闘家を目指しているだけあって…。昔から一流の格闘家は管弦の才もあると言われていますけど、本当ですね。きっと本番までには、ある程度のところまで弾けるようになりますよ、彼女。」
「そうですか。」
日向は穏やかに言ってのけたが、穏やかな上辺とは違って、腹の底では不機嫌になっていた。何かしら彼なりに、不吉な予感を乱子に感じていたのだ。
しかし、露骨に不機嫌を顔に出すのは大人気無い。さすがに、それは日向のプライドが許さなかった。大いに気にはなったものの、別に、という表情を神前と沙耶の前では取り繕った。
神前も、準備に気を取られていたので、日向の表情の変化を捉えることは出来なかった。
ううん、と軽く咳払いをすると、
「二人で大丈夫ですか?」
少しトーンを上げて、日向は神前に念を押した。
「何、心配してるんです?日向さん。大丈夫ですよ。それとも何か?」
日向が必要以上に乱子に警戒心を抱いていることなど感じ取れない神前はきょとんとして聞き返した。
「もう、日向さんたら。神前くんには過保護なんだから…。神前くんに限って、大丈夫ですよ。」
沙耶は何かを感じ取ったらしく、くくっと笑って日向をとりなした。
「うわっ、こうしちゃいられないやっ、。早く行かなくっちゃっ。じゃあ、日向さん、くれぐれもちゃんと着替えてくださいよ。ご飯も食べてね。沙耶さんっ、後よろしくっ!!」」
神前は慌しくヴァイオリンケースを背負うと、
「乱子ちゃん――ん、行くよっ。」
と言い放った。
日向の一抹の不安を他所に、神前とらんまは、二人連れ立って、練習場に向かって出掛けて行った。
二、
練習場に向かう道すがら、神前はらんまにいろいろ話し掛けていた。
「乱馬くん…。日向さんは鋭いから、充分に気をつけてね…。ばれないように。」
「ああ。なんか、若いのに鋭気がある人だなあ…。日向さんって。それと隣に一緒に居た女性…。」
「沙耶さん?」
「奥さんか何かか?」
「違うよ…。マネージャーさんだよ。」
「マネージャーさん?」
「そう、いろいろ日向さんの雑務をこなす人だよ…。それが仕事なんだ。」
「ふうん…。タレントみてえだな…。」
「タレントと同じだよ。君は知らないかもしれないけど、日向昇って若手音楽家の中では注目株で、クラシックに造形が深い若い女の子やおばさんたちに絶大な人気があるんだよ…。」
「へえ…。で、なんであそこに来たんだ?」
「あのムジカハウスは、もともと日向さんの祖父が持っていた古い洋館なんだ。自宅は別にあるんだけど、東京で仕事する時には、ああやって時々帰ってくるんだ。」
「へえ…。」
「で、本当は、女人禁制なんだよ…。マネージャーの沙耶さん以外はね…。」
「なんで?」
「まあ、いろいろ事情があってね…。日向さんは大の女性嫌いで有名な人だし…。普通に接するだけならまだしも、私生活においてはできる限り若い女の子とは交わりたがらないんだ。」
「ひょっとして男色家?」
「さあ…。別に普通だけど…。音楽家って結構一癖も二癖もある人が多いから…。噂では子供の頃に女性に絡んでいろいろあったと言われてるけど、あんまり詮索しない方がいいかな…。」
まかないをやっているくらいだ。ある程度のことは神前にも判っていたが、乱馬に言うほどではないだろうと黙っていた。
「それと、あの家にはいろいろあってね。僕を含めて、住人は五人居るけど…。みんな男の所帯だから、女性は入室禁止なんだ。本当はね…。まあ、できる限り、日向さんに折衝して、レッスンだけでも使えるようにしておくから、ね…。」
そんな、会話をしながら歩いていると、後方から、物凄い勢いで、車の音が聞こえてきた。
ブウーン、ブウ――ン、ブウ――――ン、ブウ―――――ン。
思わず後ろを振り返って見ると、白いライトバンが猛スピードで走り抜けてくるのが目に入った。
ライトバンは、狭い道で歩行者であるらんまと神前を見つけても、一向にスピードを落とす気配が無かった。
「あっ、あぶねえっ。」
とっさにらんまは神前を抱え込むと、フワッと宙に浮いた。
キ、キ―――――ッ。
ライトバンは勢い良くブレーキをかけて止まった。
神前はらんまの身軽さにあっけに取られて、しばらく動く事が出来なかった。女性の身体でありながら、この、力と身軽さ。軽々と神前を抱えて車を飛び越したのだった。
ウイ―――ン。
ライトバンの窓が開く音がして、二人に聞き覚えのあるしゃがれ声が響いた。
「ごめんなさいっ。神前さん、乱子ちゃん。大丈夫だった?」
「あれっ、あなたは確か…都の役所の…。」
神前がそう言いかけると、声の主が言った。
「向井です。今、格闘オケの打ち合わせに、暁の方々とご一緒しての帰り道なんですけど…。もー―っ、酒野さんたらっ。もう少しで、お二人をはねちゃうところだったわよっ。」
「るさいわねえーっ。運転中に私に話しかけないでよっ。向井さんっ。」
「って、今は車、止まってるわよ、ほらっ、あんたの好きな神前さんよっ。酒野さん。」
「あ、ほんとだー、こんにちはっ。」
と、車が少し動きかけた。
「ホラッ、ブレーキッ、ブレ―ッキッ。右足でしっかりブレーキ踏んでっ。ついでに、サイドひいてっ、サイドッ。」
慌てて向井が叫んだ。
「も―、うるさいわねえっ、教習所の教官みたいなこと言わないでよっ。」
神前もらんまも、何だと言わんばかりに顔を見合わせた。
「ごめんなさいね。この人、ついこの間、運転免許をとったばかりなの。」
向井はフーッツと溜息を吐いた。
よく見ると、ライトバンの車体の前後には「どーっだっ!!」と云わんばかりに若葉マークが貼りつけてある。真っ白なボディーに、それは、妖しく光っていた。
「免許とりたてだって、堂々と公道は走れるんだから、ねえっ、神前さん。」
向井の言葉にカチンときたのか、酒野は息巻いた。
…こんなところで、同意を求められても…。
神前は困惑した。
「ははははは…。」
と、愛想笑いをするしかすべがなかった。
「そうだっ。どうせ、私達も暁の練習場に行くから、お二人サン、乗って行きなさいよ。」
酒野が言った。
「えー―――っ!?」
酒野の無謀な提案に、助手席の向井は、突拍子もない声を上げた。
神前もらんまも、声こそ上げなかったが、一瞬、硬直して、直立不動になった。
「あんた、なんて恐ろしい事言い出すのよーっ。」
向井が言うと、
「何よ、イイじゃないっ。どうせついでなんだから…。」
と酒野が突っかかった。
「あのう、練習場は、すぐそこですから…。」
身の危険を察知した神前は、とおり一辺倒の事を言って、穏便に、酒野の申し出を断ろうとした。
「神前さんたら…。遠慮しなくっていいのよ。」
酒野はにっこり笑ってそう言った。しかし、眼鏡の奥の眼光には、「逃がさないわよ。」という、無言のプレッシャーが光々と輝いていた。
「あんたねえ、遠まわしに断られてんのよ。わかんない?」
飽きれた顔をして、向井が横から口を挟んだ。
…そうだ。そのとおりだ!頑張れ、向井さんっ!…
神前は気弱く思った。到底自分からは断れない性分だった。
「何よっ。あたしの運転じゃあ、乗られないって言うの?」
酒野は凄んで、神前のほうをギロッと睨んだ。
「いえ、あの、決してそんなつもりじゃあ…。」
オドオドしながら神前は答えた。
四十代のオバサンの「押し」に、人生経験の浅い若造が叶う筈はなかった。もはや、蛇に睨まれたカエルみたいだった。
「こらこら、脅迫したら駄目よっ、怖がってるわよ。」
向井は諦め顔になった。こうなったら酒野は、何がなんでも、神前達を乗せるだろう…彼女はそう判断していた。
蛇に睨まれて、居たたまれなくなったのだろうか。
「わ、わかりました。乗っていきます。」
次の瞬間、神前は、思わずそう答えていた。
それを聞くや、酒野はにっこりと笑った。
「はーいっ、お二人様、ご・あ・ん・な・い…ね。」
右手の人差し指を左右に降りながら、酒野は陽気に言った。
「ちょっと、大丈夫なの?酒野サン。運転、変わったげようか?」
と向井が言っても。
「いいのよっ。こんな(神前さんを乗せてあげる)チャンス、めったにないから、私が運転しますっ。」
と機嫌良く酒野は答えた。
これ以上何を言っても無駄だとふんだのか、向井は何も言わずに黙ってしまった。
「早く乗ってね、お二人サン。ロックなら開いてるわよ。」
「おいおい、正気か?何かヤバそうだぜっ。」
らんまは、こそっと、神前に耳打ちした。
「しょうがないよ、諦めて乗っちゃおう。」
神前は溜息混じりに答えた。
「仕方ねえなあ…。」
カチャッ。
後部座席のドアを開けて、しぶしぶ二人はライトバンに乗り込んだ。
「大胆ねー。命知らずねえ、あんた達…。しーっかり、シートベルトしなさいよ。」
助手席から振り返って向井が話し掛けた。
意を決して、神前とらんまは、命綱をキュッと締めた。
三、
「オーケー、じゃあ、行くわよーっ。」
元気良く酒野が声を上げると、車は轟音を上げながら、走り始めた。
「あれっ?アクセル、さっきより重いわっ。頭数が増えたせいかしら…。」
ハンドルを握る酒野が呟いた。
「ちょっと、酒野サン。ホラッ、サイド下ろしてっ。」
頭を抱えながら、向井が答えた。
「へっ!?」
「だからあー、サイドブレーキかけっぱなしなのッ。解除して、解除!」
「そっかー。それで、アクセルが重たかったのね。」
酒野がサイドを外すと、今度は勢い良く、車が滑り始めた。
ガクンッ。ドンッ。
「もっと、穏やかに走んなさいよー。ちょっと、何キロまでスピード上げるつもりなの?」
「うっさいわねえ。60キロよっ。」
「60キロ!?」
「ここ、速度制限の標識なんてないジャン。だから、60キロで走らなきゃ。」
ハンドルを握り緊めて、酒野は答える。
「あんたねー、こんな狭い道、そんなスピード出しちゃ駄目だってばっ。」
慌てて、向井が止めにかかった。
「60キロ。60キロ。」
呪文のように酒野はぶつぶつ唱えている。
「馬鹿っ。標識ないからって、60キロで走んなきゃ駄目だっていう決まりはないのよォー。」
向井が叫ぶ。
神前もらんまも、二人のやり取りを聞きながら、後部座席で化石と化していた。
「ほらーっ。交差点から人がっ。車が。信号、赤よーっ。」
キキ―ッ。
カクンとなって、車は止まった。
信号は真っ赤だった。
「もー。ウルサイッたらありゃしない。」
ぶつぶつと酒野が言っている。
「お、おいっ。やっぱ、ヤバイぜっ。神前さん。」
らんまは隣の神前を突付いた。
心臓が、バックン、ドッカン、脈打っている。
「ハはははは…。」
神前の顔は恐怖で引き攣っていた。
「信号が青に変わらないうちに、降りた方が賢明だぜ。」
「そ、そうだね。」
二人の意見は一致をみた。
「あのォー、ぼ、ぼくたち、やっぱ、ここから歩いていきます。ご、ごめんなさいっ。」
神前がそう言い終わるか終わらないかのうち、二人は一斉に、ドアを開けようとした。
カチャ、カチャ、カチャ。
「へっ!?あ、開かない!!」
ガチャガチャガチャッ。
やはりドアは開かなかった。
「ふっ、一度乗ったら、逃げられないのよっ。」
運転席の酒野の眼鏡がキラリと光った。
押しても引いても、ドアはピクリともしない。
鼻の頭に汗をかきながら、必死でこじ開けようと試みたが、何度やっても駄目だった。
そんな二人の努力を見て、酒野はふふっと不気味な笑い声をもらした。
鬼気しに迫る、酒野のド迫力に、神前もらんまも顔面蒼白になっていく。
「逃げようったって、無駄よ。お二人さん。」
「ひっ。」
酒野が凄むと、二人は後部座席で思わず、抱き合ってしまった。
「チャイルドロックが仕掛けてあるのよ…。」
不敵な笑いを浮かべながら、勝ち誇ったように酒野が言った。
「ちょっと、酒野さん、いつの間に…。」
飽きれたように向井が横からちゃちゃを入れた。
「チャイルドロック…?」
二人が反芻すると、
「そっ、お子ちゃまが内側からいたずらしないように、締めるロックよん。」
酒野は、二タッと笑った。
「そ、それ、ちょっと、怖いわよ、酒野さん。」
助手席の向井が答えた。
「さーて、青になったわ。行っくわよー。」
ブー―ン、。
キキ―ッ。
ゴトン。
ブウー―――――ンッ。
内側からドアが開けられない以上、二人に残された道はただ一つ。おとなしく、恐怖と戦いながら、後部座席に座っている外なかった。
練習場に着く、僅かな時間だったとはいえ、神前とらんまの二人には、永遠の拷問のようなひとときだった。
「着いたわよ―っ。」
車が完全に止まったのを確認すると、向井が後ろの二人に声を掛けた。
二人は、後部座席で固まっていた。両目はカッと見開き、両手は拳を握り緊め、歯を食いしばって、恐怖に耐えていたのだった。
「かんざきさんっ。らんこちゃん。着いたわよ。」
ドアを外から開いて、向井が声を掛けても、二人は黙ったまま、放心していた。
「あーら。お二人さん。まーだ、私とドライブし足りないのねっ。もう一巡りしましょうか?」
酒野がそう声を掛けると、二人は我に返り、慌てふためいて、車から転がるように降りさった。
四、
恐怖のライトバンから解放された神前とらんまは、暫らく地に足が着かない状態で、呆けていた。ちょうど、ジェットコースターに乗った後の、くらくらとした感じだったのだ。
酒野と向井は、二人に何やら話しかけたが、耳に入らないようで、立ち尽くしていた。
「ダメだわ、二人とも、人格が崩壊してる…。」
向井が覗き込むようにして言った。
「そんなに、怖かった?あたしの運転。」
酒野が小声で問い掛けると。
「まあね。初めてなら仕方ないか。」
向井は、ジェットコースターが大好きなので、実のところ、そう酒野の運転に恐怖を感じていないのである。図太いというか、怖いもの知らずとういか…。
「でも、二人とも、だらしないわね。あら、もうこんな時間。ボチボチ帰んなきゃね、酒野さん。」
「ホントだ、家で子供達がお腹をすかせて待ってるわ。」
「今度は、あたしが運転するからね。」
酒野と向井は、まだ、放心状態の神前とらんまに、一応、挨拶してから、車に乗り込んだ。
そして、立ち尽くしている二人の前から、車を発進させて、さっさと帰っていったのだった。
白い排気ガスを残して、恐怖のライトバンが走り去ると、ようやく二人は人心地がついて来た。
「あー怖かった。死ぬかと思ったぜ。」
らんまの一言に神前も同調して首を縦に振った。
「寿命、十年くらい縮んだんじゃあねえか?」
「そうですね。」
二人の心臓は、まだ、ドクドクと波打っている。
「もう、酒野さんの運転する車には二度と乗んねえっ。」
「同感です!!」
二人は、力強く言って、誓い合った。
しかし、こんなかたい決意とは裏腹に、恐怖のドライブは、再度、二人の身の上に、襲いかかることになる。それは、まだ、少し先の話ではあったが…。
ライトバンが見えなくなると、神前は練習場の鍵を開けた。
「なんか、緊張がほぐれたら、トイレに行きたくなっちまったな。トイレってどこだ?神前さん。」
楽器を下ろすなりらんまが訊いた。
それには答えず、神前は口を押さえていた。
「どうしたんだ?神前さん。」
神前の変調に気付いたらんまが彼の顔を覗き込むと、蒼ざめていた。
「ちょっ、ちょっと吐き気が…。うっ。」
神前は力無く答えた。
「ひょっとして、さっきの車に酔っちまったのか?顔色悪いぜ。」
「と、とにかく、トイレに行きましょう。」
神前はよろめきながら、這うようにしてらんまをトイレに先導した。
「ここです。」
神前はトイレの前に来ると、大急ぎでドアを開けて中に入って行った。
らんまも、神前に続いて男子トイレに入った。
「ちょ、ちょっと、らんまくん!!」
神前は一緒に入ってきたらんまにギョッとして言った。
「ん?」
「どうして、こっちに入ってくるんです?」
「えっ?」
「きみは、今、女の子だから、男子便所はちょっとまずいんじゃあ…。」
神前の指摘はごく当然だった。らんまの正体を知っている己はいいとしても、他の人が見たら…。
「……。あっそうか。俺、今の格好じゃあ、立ちションできねえもんな。」
…そういう問題じゃあないと思うんだけど…。
神前はらんまの答えに困惑した。
「しゃあねえっ、女子トイレに行くか。」
「女子トイレは左隣です。」
「じゃあなっ。」
そう言って、らんまは男子トイレから出ようとドアノブを持とうとすると、先にドアが開いて、男性が一人、入ってきた。
「えっ?」
男性は男子トイレから平然と出てきた女らんまを見て、一瞬たじろいた。
らんまは悪びれることなく、ごく当然のように、男子トイレから平然と出ていった。
「な…?、お、男便所だよな…ここ…うん?」
男は、神前を見つけると、駆け寄ってきて、そう言った。
「や、やあ。大野くん。今日も早いねえ。」
神前は、引き攣りながら、男性に声を掛けた。チェロの大野だ。彼もまたムジカハウスの一員だ。
「今の子、何でここに居たんだ?」
「さ、さあ…。まちがえたみたいだよ…。女性用と…。」
神前はおどおどと答えた。
「そっかあ…。間違えたっていう風はなかったけどなあ…。」
大野と呼ばれた青年は、小首を傾げて考え込んだ。
5
女子トイレに入りなおしたらんまは、不本意ながら、そこで用を足すと、洗面台の鏡に己の姿を映した。
「あーあ。毎度の事ながら、情けねえよなあ…。」
ぶつぶつ言いながら、水道で手を洗う。
「そーだ。ついでに、ここでブラジャー外しちまおうっ。」
らんまは、八宝斎にムリヤリ装着されたきつめのブラジャーの事を思い出した。
ここなら、誰に気兼ねする事なく、ブラジャーを外せる。
らんまは上着とランニングシャツを脱ぐと、個室のドアに引っ掻けた。そして、鏡に映し出された己の姿を見ながら、後ろに手を回して、ブラジャーを外しにかかった。
「ちぇっ、きつく身体に食い込んでて、上手く外れねえやっ。うわっ、ブラの型がこんなについちまってやがる。」
ぶつぶつ言いながら、身体にビッタリと食い込んだブラジャーを一気に外そうと、上体を捩じらせて、ホックに手を伸ばした瞬間だった。
女子トイレの入口のドアがカタンと開いて、人が入ってきた。
らんまは、正面の鏡の中に映し出された人影の人物と目が合った。
「げっ、あかね…。」
らんまは人影があかねである事を認めたのだ。らんまは後ろ手を回した不自然な格好のまま、静止してしまった。
あかねもまた、そのまま、静止してしまった。
なんと、間の悪いことか。
鏡越しでこのカップルは。お互いの姿をしばし見詰め合ったまま息を呑んだ。
先に口火を切ったのは、あかねだった。
「ちょ、ちょっと―――っ。なんで、あんたが、女子トイレになんか入ってるのよ―っ。」
あかねは顔を紅潮させて、鏡の向こうのらんまに言い放った。
「な、何でって、仕方ねえだろっ。俺、今、女の形してんだ。男便所、入る訳にはいかねえだろがっ。」
らんまもまた、顔を赤らめて答えた。
「で!?ここで何してんのよっ。ブラジャーなんかつけちゃって、やらしいわねっ。」
あかねの言葉に、プチンときたらんまは、くるりとあかねの方に向き直った。
「あのなっ、断っとくけど、ブラをつけてんじゃあねえぞっ、外してんだっ。」
「どーだかっ。どっから手に入れたのかは知らないけど、つけて楽しんでたんじゃないの?」
「八宝斎のジジイにつけられたんだっ。俺が自分からブラなんか着ける訳ねえだろうがっ、バーカッ。」
らんまが勢い込んだとたん、身体に食い込んでいたブラジャーが外れて、ひらんと床に落ちた。
そして、その拍子に、らんまの福よかなオッパイがペロンと剥き出しになった。
「あっ!!」
二人の視線は、そのまま剥き出しになったオッパイに凍りついた。
しばらく、気恥ずかしさで、二人とも、口が利けなかった。
何秒かたって、落ちたブラジャーを、らんまは無意識に拾い上げた。
その動作を見ていたあかねは突然、
「あー―――ッ!!!」
と、大声をあげた。
「こ、このブラジャーっ、あたしのじゃないっ。」
「へっ!?」
予想外のあかねの一言に、らんまは、手に拾い上げたブラジャーをまじまじと見つめ直した。
「な、何、じっと見てんのよっ。」
あかねは慌ててらんまからブラジャーをひったくった。
「やっぱり、こないだから、行方知れずになっていた、あたしのお気に入りの…。」
あかねは、キッとらんまを睨んだ。
「お、おいっ、何だよ、その目は…。言っとくけどな、俺が盗ったんじゃねえぞっ。八宝斎のジジイが…。」
らんまは身の危険を感じて、必死で弁解を試みたが無駄だった。
バチンッ。
次の瞬間には、あかねの右手のビンタが、らんまの左頬に向かって飛んで行った。
「いってェーっ!何すんだよっ。」
らんまは左頬を押さえて言った。
「変態っ。」
あかねのキツイ一言が、らんまの耳に突き刺さった。
「あんだとーっ!?」
らんまもあかねのこの一言には、切れてしまった。
そうなると、この二人の喧嘩は、もう、誰にも止められないだろう。
いつもの如く、激しい、悪態の応酬の舌戦が始まってしまった。
「俺じゃあねえって言ってんだろがっ。えーっ、俺の何処が変態なんだよっ。」
「変態だから変態っていってんのよ。あたしのブラ着けることないでしょっ。エッチっ。」
「だから、八宝斎のジジイが無理矢理つけたって、さっきから何遍も言ってるだろっ。俺は、男だっ!!ブラなんか自分から着ける訳ねえだろがっ。」
「どーだかっ。」
「第一なあ、誰が好き好んで、おめえの小さいブラなんか、着けるかよ!!」
「なんですって?」
「この小せえブラのせいで、今の今まで、胸がつぶれる思いしてたんだ、俺はっ。」
あかねにとって、最大の侮辱といえば、胸が小さいと小ばかにされた事だろう。
「たくーっ、ジジイも物好きだぜ。こんなちんけなブラジャー収集しやがって…。」
「悪かったわね、小さくてちんけな胸で…。」
「あん?俺のほうがでっかいからってひがんでんのか?おめえ。」
「ひがんでないわよっ。」
あかねが右手を張り上げかけると、
「あーっ、また殴る気かあ?ホントにおめえは狂暴だなあ。」
「あんたみたいな変態女男に言われたくないわよっ。」
「ちぇっ、可愛くねえ!そんなに減らず口ばっか叩いてると、嫁にもらってやんねえぞっ。」
「何よっ。」
「おめえみたいな色気のねえ、狂暴、不器用、寸胴女、嫁に出来る男なんて、そうそう、いねえんだからなっ。わかってんのか?」
「あんたみたいな変態、スケベ男の嫁になれる女もそういないわよ、バカっ。」
この辺りまで言い合いが続いたとき、なびきがひょっこりと顔を出した。
「ちょとー、あんたたち、こんなところで、何言い合ってんのよ。場所と状況を考えなさいよねっ。筒抜けよ…。会話が…。」
なびきはそう言って、入口のドアの方をチラッと見た。
二人がなびきの視線の先を見やると、全開した女子トイレの入口ドアの向こう側に、神前と大野が無言で立っているのが見えた。
「恥ずかしいわねえ…それに…。」
なびきはらんまをズバッと指差した。
「あんた、今は、女でしょっ。もっと女としての自覚を持ちなさいっ。女同士の変態の会話にしか聞こえないわよっ、今のは…。」
確かに、なびきの忠告は的を得ていた。
現に、ドアの向こう側から、ささやき声がした。
「なあ、神前、女同士って、結婚できたっけ?」
「で、できる訳ないでしょう。お、おふざけに決まってるでしょっ。」
事情は知っているが、ここで大野に話す訳にはいかないと、神前ははぐらかしにかかった。
「おふざけねえ…。」
ますますわからんというように大野は腕を組んだ。。
「おふざけはあの二人に任せて、ほらっ、早く譜面のコピーを済ませないと、練習時間が来ちゃいますよ。大野君、手伝ってくれるんでしょ…。」
この場はとっとと退散するに限ると踏んだ神前は、大野をムリヤリ引っ張っていった。
神前たちがその場を去ると、
「わかった?乱子ちゃんっ。くれぐれも女の自覚、忘れないでよっ。」
なびきは、念を押す。
「あかね、あんたもねっ。しっかり、未来の旦那様のサポートしなさいよっ。」
なびきは言うだけ言うと、くるっと背を向け、トイレを出ていった。
トイレに取り残されたらんまとあかねは、お互いを見詰め合うと、フーッと深い溜息をもらした。
そして、あかねは自分のブラを鞄にしまい込んで、らんまは服を着こんで、それぞれ、無言で、トイレを後にした。
車のプロット…実は、この作品を書いていた当時、教習所へ通っていた南極堂さんへのエールで作ったギャグネタです。
免許取立ての車に乗せられる恐怖?とチャイルドロックネタが使ってみたかったので描きました。
彼女の名誉のために言っておきますが、至って普通の模範ドライバーです…。
(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。