乙女心とヴァイオリン#2
三、
「まったく、なんだってんだよっ。!」
風呂場の脱衣所で、頭と体を拭きながら、神前はぶつくさと文句をたれた。
…ここのウチ、なーんか変だよなあ。いいのかなあ、本当に、格闘オケなんてイベント受けちゃって…いくらギャランティーがいいって言っても…。後でとんでもないことになったりしないだろうなあ。どうして、巨大な豚だの、パンダだのが、違和感なく溶け込んでるんだろう。
変だというのを十分理解していながら、強い態度が出ないのは、「変」ということにかけては、自分も他人のことは言えないという、少々後ろめたさを持っているからなのだった。
濡れた服を脱いだ神前は、困惑と羞恥の混ざった顔で、目の前の洗面台の鏡に映った自分の体を見た。
…ま、まいったなあ。風邪引かないように注意しなきゃ…。
などと思いつつ、服を脱ぎ始めた。
ガラッ!!
いきなり扉が開き、かすみが顔を出した。
「!!!??」
声も出せないくらい、パニックに陥った。当たり前だ。仮にしも男の自分が脱衣している最中だ。なのに、かすみは平然と笑いかけながら、畳んだ服を差し出した。
「お洋服、乾くまでこれをどうぞ。乱馬くんのなんですけど。」
ランマ君が、誰だか知らないが、神前は、真っ赤になって、ぶんぶんとうなずいていて、洋服を受け取るしかなかった。
彼が、服を受け取った後も、かすみはニコヤカにそこに立っていた。
「あ、あ、あの、ひ、ひとっ、一人で着替えられますからっ。」
神前は、何を勘違いしたのか心底情けない声で、精一杯そう言った。うら若き乙女に男の柔肌を見られて、身体は熱く固まってゆく。
「そうですよねえ。」
にっこりと笑ってそう言った。そしてかすみはほのぼのとした雰囲気を残しながら脱衣所から出ていった。
閉まった扉を見て、神前はずるずると、その場にしばらくへたり込んでいたが、ふと、我に返ると慌てて、貸してやろうと言われた服を着ようとした。
「これって…。」
貸してもらった服は、チャイナ服と言うのだろうか、カンフー用とでも言うのだろうか、そういう代物だった。こんなモノを出されてもと、情けなかったが、それしかないので、とりあえず着込んだ。
痩せぎすの神前には、少々大き目だった。
…へえー、悪くないなあ。
鏡に自分の姿を映してみた。彼は良い意味でも悪い意味でもヴァイオリニストの端くれ。少し「ナルシスト」の気が入っている。なにしろ物心がついたころから戯れているヴァイオリン。これの練習には姿見は欠かせない。誰が言ったか知らないけれど、鏡を前にフォームを研究しながら弾かねばならない弦楽族、取り分けヴァイオリニストには「ナルシスト」が多いと言う。彼も例外ではなかったかもしれない。
初めて着たそのチャイナ服に気をよくして、少々気分を持ち直していた。
そこへまた、扉が、ガラッと開いた。立っていたのは、ずぶ濡れになったおさげの女の子、乱子だった。服を着込んでいた神前は、今度はさっきほど慌てずにすんだので、乱子に声を掛けた。そのくらいの余裕は彼にもあった。
「君も、水をかけられたの?」
水が滴る乱子に向って神前はそう尋ねた。
「ああ、あのクソじじいに、池にたったこまれた!くっそおー、逃げやがって!!」
と、言うが早いか、乱子はその場でばさばさと服を脱ぎ始めた。
「え…?」
神前は、目の前で露になっていく乱子の裸に、頭の中が完全にショートした。
「悪かったなあ。あのクソじじい、とんでもねえやつでよお。」
そう言いながら、乱子は、男の神前がいるのを、毛筋ほども気にせず、タオルでごしごしと体を拭いている。
「あっ、くっそー、つめてー。本当は、風呂に入りたいんだけどなあー。」
そう言って、乱子は神前を振り返った。神前は、石像と化していた。
「おい!おい!大丈夫か?おい!」
そう肩を盛大に揺すられて、かろうじて意識の戻ってきた神前は目の前に、まだ、らん子の形のいいバストが、どアップのまま露になっているのに気づいた。
「うわっ、うわっ、うわあああああああ…。」
神前の心底情けない声は、天道道場中に響き渡った。
…神前の情けない叫び声は、天道道場に響きわたるはずだったが、何故か、それは誰にも届かなかった。
「ん…、うぐ」
神前の口は、あかねの手でふさがれていた。
「あ、あかね…。」
「ばかっ!何やってんのよ!全く!神前さんの入っているお風呂場に、のこのこ入っていくから、来てみれば案の定だわ!!早く、上着を着るか、台所でお湯かぶるか、どっちかになさいよっ!」
「な、なんだよ」
「ウチの人間だけじゃないでしょっ!今日は!そーーんな事もわからないの?ほんっとーーーにバカなんだから!」
いきなり現われ、ポンポンとまくしたてるあかねに、乱子、いや、乱馬はむかっとした。
「な、何だよっ!その言い方はっ!かっわいくねえなー。」
「可愛くなくて悪かったわね!ふんっ、何よっ。」
「俺の方が、胸が大きいからって、妬くんじゃねえっつうの。」
「誰が妬いてんのよ、誰がっ。大体ねえ、男のくせに、ムネが大きいのを自慢するなんてサイテー!変態男!!」
相変わらずの、売り言葉に買い言葉で、あかねは、思わず神前の口をふさいでいた手に、ぐっと力をいれてしまった。
「あ、ら?」
神前は、あまりの酸欠状態に、あかねに寄りかかって失神してしまった。
「あ、こらっ。あかねに、気安くすがるんじゃ…。おい、こいつ、気、失ってんぞ。」
「あら、本当…。やだ、力いれすぎちゃった。」
「ったく、ばか力なんだからよお。手加減しろよな、手加減をよお。」
「うるさいわねえ。…でも、このまま、おいておくとまずいわね。乱馬、手伝って。」
「何すんだよ。」
「とりあえず、道場に運んで、寝かせてあげましょうよ。居間のみんなに、気づかれるとこまるでしょ?」
「あ、ああ。」
「いったい、いつまで、裸でいるのよっ!神前さんを運ぶから、男に戻ってらっしゃい!」
結局の所、あかねに頭のあがらない乱馬は、台所で、お湯を被り、風呂の脱衣室においてあったTシャツを着て、神前を運ぶことにした。
「うわっ こいつ、軽い。…あかね、お前の方が重いんじゃねえか?」
「何ですって!!」
「う…うーん。」
頬を、ぴたぴたと叩かれ、神前は気がついた。目を開ければ、誰かが自分を覗き込んでいる。
「こ、ここは?ぼ、僕は…?」
意識のだんだんハッキリする頭で確認し、神前は慌てて、自分の置かれている状況を判断しようと考えた。
…なんで?僕は…あれ?さっき、誰かに口をふさがれて…気が遠くなって…いや、待てよ。その前に、らん子ちゃんが!!!!…
神前はさっきの、脱衣室での光景を思い出し、思わず真っ赤になって、飛び起きた。
「あ、よかった」
「気がついたな」
目の前にいるのは、あかねと紹介されたこの天道家の三女と、初対面になるおさげの男、歳はあかねくらいだろうか…。
「え、えーと、あの僕は…」
神前は、もう一つ事情がわからずに、クエスチョン・マーク全開の顔で、二人を交互に見比べた。
「あんた、さっき、風呂でひっくり返ったんだよ。このあかねのばか力でよ。」
「ばか力はよけいよっ。ごめんなさい、神前さん。神前さんが大声で叫びそうだったので、つい…。」
あかねは、神前に素直に謝った。そのしおらしい様子に、なんとなくむっとした乱馬はあかねに言った。
「おや、珍しく、素直じゃねえか。まだ、熱でもあるのか?」
「らんまーー。」
「それとも、雨でもふるのかなっと。」
「なによっ!もともと、あんたが考えなしのことするからっ。あんたのせいでしょ!」
「なんだよっ!俺のせいだっつうのかよっ!元々は、あのエロ妖怪爺が、俺を池に叩き込んだりするからっ」
神前は、目の前で舌戦を繰り広げる二人を呆然と眺めていたが、本来の気配り男としての自分を取り戻し、その場を収拾し、二人をなだめることにした。
「あ、あのさ、何が原因かさ、わからないけどさ、とりあえず、けんか止めませんか。」
「何が原因かってー?大体さあ、いい年してたかが女の裸見たくらいで、驚いて大声あげるあんたもあんたなんだよ。」
「やめなさいよっ。あんたみたいな無神経男と一緒にしちゃ神前さんは迷惑よ。」
「悪うございましたね、無神経で…。こっのー、不器用女!!!」
「なんですってー。このー、ど変態男!!」
「あーもうっ。ストップ!ストップ!けんかの原因が僕なら、謝りますから。御願いですから、もう止めてくださいよ」
さしもの神前も呆れ果てて、二人を黙らせた。
四、
二人は、さすがに人前で恥ずかしくなったのか、大人しくなった。
神前は、それを見て、小さくため息を吐いた。
「よければ、事情を説明してください。…と、いうか、一体、何がどうなっているのか、僕にはさっぱりわからなくて…。僕は、その、あの、…ら、らん子ちゃんは…?」
神前は、そこまで言うと、音がするんじゃないかと言うほど、かあっと真っ赤になってしまった。
あかねと乱馬は、たかだか、ムネを見たぐらいで、ここまで赤面している彼をよほどの純情か、とことんもてなくて、女に縁がないか、どっちだろうかと考えた。らんまの胸など、日常茶飯事の天道家であっても、神前にとってはまず見られない、とても珍しいリアクションだったからだ。
「ら、ら、らん子ちゃんには、とて、とて、とても、失礼なことを…」
“失礼”が、思いっきり上ずっている神前の言葉に、あかねと乱馬は顔を見合わせた。
二人は、大体同じ事を考えていた。乱子のカラクリを説明しなければ、この純情そうな神前は、これから先、乱子に会うたびに、真っ赤になり、うろたえ、パニックを起こしそうだ。それに、第一、暁交響楽団でも一人でもいいから誰かにきちんと事情を説明しておかないと、これから先々、イロイロと面倒な事になりそうだ。
「おい、あかね」
乱馬は、あかねに水とお湯を持って来るように言った。
「俺は、早乙女乱馬。あかねとは同い年だ」
「あ、はじめまして。僕は…」
「知ってるよ。暁交響楽団のコンマスやってる神前さんだろ。さっき、紹介してもらった。」
「へ?」
おかしい…たしか、この少年とは初対面のはずだ。さっき、紹介されたのは、ほとんど女性ばかりで、こんな男の子はいなかったのに。神前は、ますますわからないという顔になった。
「あれ?僕は君に会うのは、初めてかと…。」
そこまで言った時に、あかねが水差しとやかんを抱えて戻ってきた。
「会ってるんだよ、さっき。ちょっとばかり、姿は違ってたけど…。」
「神前さん、驚かないでね。この乱馬、少し、フザケた体質で…。」
と、言い終わらないうちに、あかねが乱馬の頭から、水をかけた。
「ちっめてーー。」
神前は、目が点になった。口は金魚のようにパクパクしている。
水を浴びた乱馬は、彼の目の前で、乱子になっていた。
「………。」
あわあわとうろたえている神前を、気にする風でもなく、あかねは、今度はらん子にどうやらお湯らしいやかんの中身を頭の上からまたかけた。
「うわっ、あっちっち!あかね、すこし熱いぞ!!」
「♂?♀!!♯◎??」
乱子は、再び、神前の前で、乱馬に戻っていた。
「…と、いうわけなの。」
と、いともあっさり言って退けたのは、あかねだった。
数秒の空白の後、神前は、もう、どーにでもしてください状態の脳みそで言った。
「…というわけなのって、…そ、そんな…あ、あっさりと…だって。」
「だって、しょうがねえじゃん。そういう体質になっちまってるんだし。」
乱馬も、半ばやけくそながら、あっさりと言った。
「体質?」
「今は、イロイロ詳しい事を説明しているヒマはないんですけど、とにかく、この乱馬は、水をかぶると女になってしまうんです。」
「水を?」
「ハイ。」
「かぶると?」
「ええ。」
「じゃ、もとに戻るには?」
「お湯を。」
「ああ、お湯なの。」
全然、納得していない神前は、それでもそうつぶやいた。まるで、フリーズ・ドライの味噌汁だ、と、神前は一瞬思った。
「で、どっちなの?」
「え?」
「本当は、男なの?女なの?」
「俺は男だ!オトコ!やりたくて女やってるわけじゃねえ!」
乱馬が、噛み付くように彼の質問に答えた。
「あー、そうなの。」
神前は、そう言うしかなかった。このオトコ、もともと、常識派、善良市民型なのであるが、四六時中、型破りの音楽仲間たちといるせいで、少しばかり一般人とは一線を画してしまっているフシがある。あとで追々わかるだろうが、そのくらい、彼の楽団は個性的な集団であった。
世の中、イロイロある、などとどこかでネジがとんでいるし、とにかく、目の前でコロコロと入れ替わられたのでは納得するしかないではないか。
「そんな訳で、乱子は乱馬なんですけど、あの、この事は…。」
あかねが、言いよどむと、神前はあかねにやさしく微笑んだ。
「わかった、他の人には、内緒ってことかな。」
「ええ、こーんな変態体質、あんまり人に知られない方が。」
「だれが変態だよ、誰が!」
「あーら、十分そうじゃない」
また、角突き合わせるといった風なあかねと乱馬に、神前はあわてて言った。
「あ、あのー、ごめん、僕って嘘ついたり、誤魔化したりするのヘタなんだ。とくに、勘のいい川出さんたちにはすぐ、見抜かれてしまうからさ。あんまりいい共犯者じゃないけど、僕にできるだけのことはするよ。でも、できれば乱子ちゃんで通してほしいなあ。」
そう言って、神前はふんわりと笑った。笑う以外どうリアクションすればいいのか、わからなかったから、笑って誤魔化しただけだったのだ。
と、それを見たあかねが、ぽっと赤くなったのを、乱馬は見逃さなかった。
五、
…な、なんだよ、あかねの奴!このすっげー女らしいリアクションは!!面白くねえ!!…
乱馬はムカムカっとした。ここは一つ、何か言ってやらねえと…と、口を開きかけた所にあかねの方が先に口を開いた。
「神前さんて、ヴァイオリニストですよね?」
「え?ああ、はい。まあ、まだまだですけど、ええ、一応」
「私、すっごくヴァイオリンに憧れていて…、すごいなあー、ヴァイオリン弾けるなんて…。やっぱり、すごく、むずかしいんですよね。」
何だか、あかねはいつもと違い、とってもフツーの女の子っぽく、かわいらしい。神前にウルウルと憧れのまなざしを向けている。
「いや、そんな。一生懸命練習すれば、あかねちゃんだって、きっと弾けるようになりますよ」
「こいつ、すっげー不器用だぜ。」
「うるさいわねっっ。」
「なんでぇっ、ほんとのこと言って、なんでそんなにおこるんだよー。」
乱馬は、あかねの神前に向ける眼差しや、態度が何だか気に入らなくて、突っかかる。
神前は、放っておくと、また延々口喧嘩になりそうなので、フォローのセリフを差し出した。
「あ、あのさ、本当にやりたければさ、もし、良ければだけれども、ウチのオケに来てみるかい?」
「え?」
「いや、せっかくの春休みだしさ。あー、そうだな。…、それよりさ、僕が教えてあげてもいいよ。」
「無駄、無理、無駄。」
「ら・ん・まあ〜」
「大丈夫だよ。あかねちゃんにもすぐ、弾けるようになるよ。」
だいたい、乱馬は、神前があかねを“あかねちゃん”と呼ぶのも、気に入らない。馴れ馴れし過ぎる。
だが、神前は、天道が三人も四人もいるのだから、そう名前で呼ぶのが手っ取り早い方法だと思っているに過ぎない。
「いいんですか?」
「うん、君さえよければ。あー、でも、僕は自分の練習も、家の仕事もあるからさ、ここに、出向くって言うのはちょっとなあ。だから、僕らの家の方に来てもらえるなら、いつでもOKなん…」
と、言いかけて、神前は仲間達の許可を取ってないのに気がついた。
…そうだ。ちゃんと、川出さんたちに言っとかなきゃ、まあ、でもこの企画に大いに乗り気なのは彼らのほうなんだから。別にその人達に、レッスンつけてあげるってことなら、構わないよな…。
「あのー、神前さん?」
「あ?ああ、ごめん。うん、いいよ。詳しい事は、そう…だな。また、連絡するよ。それと、あと、地図を書いて置こうね、家までの」
「はいっ。是非、行かせてください」
あかねは、目いっぱい、うれしそうだ。
…なんでえ、なんでえ、あかねの奴!なんだって、こんなに嬉しそうなんだ?…そういや、最初から、この話には乗り気だったらしいし、ヴァイオリンをやるってさっさと決めていたらしいし。どう、なってんだ、いったい
乱馬は、目いっぱいうれしくないし、オモシロくない。目の前の人によさそうな、自分とはまるで違う、華奢で、色白で、やさしそうな、このメガネの男が胡散臭く見えてくる。
何だか、この場で、一人浮いているのが、面白くなくて口を開いた。
「もう、部屋に戻った方がいいぜ。おい、あかね。お前はもう、寝ろよ。まだ、風邪、直りきった訳じゃないんだぞ。」
「うん。」
あかねは大人しくうなずいた。それから、神前に嬉しそうに頭を下げて道場を出ていった。
神前は、そんな二人の様子を見て、この二人は、ただ仲が悪いわけじゃないんだな、と思った。
バシャッ
水音がしたので、振りかえると、乱馬が乱子になっていた。
「!!」
やっぱり、神前は顔を赤らめてしまった。
乱馬は、その神前の様子を見て、さっきのあかねと神前のなんだかイイカんじへのムカムカのうっ憤晴らしをする事にした。
神前は、なるべく乱子の方を見ないようにしている。
「あんたって、純情だな」
いくら中身が、オトコだと言われても、目の前に立っているのはかわいらしい女の子だし、声だってかわいい。オトコだと思えと言う方が、土台、無理な話だ。
「え?そ、そうかい」
「いくつ?」
「え?身長かい?」
「違うよ。歳だよ、歳。」
「に、二十三だよ」
「二十三にもなって、女の裸であそこまでうろたえるのって、珍しいよなあ。」
「そ、そうかな?あ、そ、そろそろ戻らないと。と、川出さん、心配してるかな…」
ギクシャクと歩き出した神前を見て、乱馬は、こいつをからかうのは、何だか悪いかな、と思った。この神前という男、どうやらとことん真面目なようだ。普段、乱馬の周りにいる、フザケた連中とは、違うようだ。しかしながら、八つ当たりだと、自覚してはいたのだが、もう一言言ってやらないと、この見当違いのムカムカは収まらない。
「まっ。また、見たくなったらよ、いつでも見せてやるぜ。」
ドタッ
神前は、物の見事にコケていた。
…うそだろー、純情っつーか。なんつーか。よっぽど、女に縁がないんだなあ。かわいそうにもてないのかあなあ…
「あ、あは、こ、ころんでしまった」
神前は、そそくさと起き上がった。
「なあ、神前さん」
「は、はいっ」
「さっき言ってた家の仕事ってなんなんだ?」
「え?ああ、食事の支度とか、洗濯したりとか、掃除だとか…あ、僕、川出さんたち音楽仲間と一緒にとあるお宅に住んでいて、まあ居候みたいなモンだからさ、ハウス・キーパーも兼ねてね…」
「ふーん、まるでお手伝いさんが本業みたいだな。」
ドタッ
また、神前が、コケた。
「あ、あはっはははは、そ、そうかい?そそそそんな風に思えるのかな…ま、いいんだけど。それはそれで…。」
神前は自分の立場を思い出しながら、ふふっと自戒の笑いを浮かべた。
つづく
一之瀬の音楽業界用語の基礎知識(その1)
コンマス…コンサートマスターの略。
コンサートマスターとは、その楽団の演奏上の責任者となります。通常は第一ヴァイオリンのTOP奏者がその役割を担います。
オーケストラでも、弦楽アンサンブルでも、指揮者のすぐ左手(下手の一番前の外側)に座っています。
演奏上の責任者としての役割はいろいろあります。例えば「チューニング」。
「チューニング」の項目にて、後に詳しく触れますが、コンマスはオーボエ奏者から実音の「A(アー)…ラ」を貰い、それを各パートに伝えていきます。オケの演奏会の前に楽団員が入場すると必ずステージ上でチューニングは行われます。
また、「ボーイング」と呼ばれる弦楽器の弓の運弓を決めるのもコンマスの大きな仕事です。
弦楽器の場合、ボーイングは弓の上げ下げ、また、弓のどの部分で、どのようなアーテュキレーション(発音)で演奏するのかなど…(けっこう細かい指定があります)…これをきっちりと決めているので、オケでは弓が美しく揃うのです。
コンマスの一番重大な仕事は「アインザッツ」を出すことです。
アインザッツとは、休符の後の入り方などを合図することで、コンマスはやたら身振りが大きく動いているのは、楽団全体にアインザッツやテンポを指定しているためです。(厳密に言えば、弦楽器の各TOP奏者は、コンマスの動きに合せて、自分のパートへも合図を送っています。)
プロのオケでは、指揮者は要らないと言われるくらいコンマスの動きは頼られます。指揮が下手でも、コンマスがしっかりしていれば曲は前へと流れます。コンマスが下手だと、オケは空中分解することもあるくらいですから…。
また、アマチュアでは「コンマス」は、弦トレーナーの役割を担うことが多くあります。弦楽器のセクションだけで練習するとき、コンマスが棒を振りながら練習をしていることも多いです。(今まで私が所属したアマオケではたいがい弦分奏の責任者はコンマスでした)
余談ですが、「コンサートマスター」は男性の呼称で、女性がコンマスの場合は「コンサートミストレス」略称「コンミス」と呼ぶのが普通です。
プロのオケには、複数のコンマス(コンミス)が登録されていて、演奏会によって交代することがあります。日本の代表オケのNHK交響楽団も常に三人のコンマスを抱えているそうです。それぞれ第一、第二、第三…とコンマスにも格付けがあります。
音楽上のテクニックだけでなく、コンマスには統率力が一番要求されます。アマチュアでもプロでも指揮者は別格として、最も重大な責任を担うことは言うまでもありません。
(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。