キスの後先 前編
一、
六時半を回る頃になると、少しずつ人が練習場に集まり始めた。
暁オケのメンバー達は、練習場に入ると、各人の暗黙の縄張りに楽器ケースを置く。そして、一様に譜面台を広げて、思い思いに音出しを始める。
らんまとあかねは、様子がわからずに、神前のいるコンマス席の横手の方に椅子を出してもらい、借りてきた猫のように、ちょこんと並んで座っていた。
なびきは、まだ、打ち合わせの続きが有ると言って、別室で暁オケのマネージメント担当者と詰めていて、練習場には入っていなかった。
珍し物好きの暁オケの人々は、見慣れぬらんまとあかねに一様に関心を示した。中には、楽譜を神前から受け取るついでに、気軽に話し掛けてくる者もいた。
神前はセカンドバイオリンに居た秋山を見掛けると、彼の方から手招きして二人の傍に呼んだ。
「あら、可愛らしい女の子たちね。高校生?」
秋山はにこにこしながら神前に話し掛けた。
「ええ、この前話した天道道場のお二人です。あかねちゃんとらん…子ちゃん。」
「始めまして。セカンドバイオリンのパートマスターの秋山です。」
秋山は、二人に軽く会釈した。
「始めまして。天道あかねです。」
「乱子です。」
二人はペコッと頭を下げた。
らんまはトイレでのなびきの忠告を受けて、ひたすら喋らないで通す作戦に出た。口を下手に開くと、また喧嘩になりそうな上、男言葉が飛び出してきそうで、怖かったのだ。
ならばいっそう、猫を被っていたほうが賢明だと判断したのである。
「取合えず、二人とも初心者なんで、本番は弾けるところだけでも参加してもらおうと思っているんです。」
神前と秋山が話し始めた。
「天道道場からの音出しの参加者はお二人だけなの?」
「ええ、今のところは…あと、何人かはパーカッションで入ってもらうつもりにはしているんですけど…。是非にって希望してくれたのは、このお二人だけなんです。」
「ふー―ん。いいんじゃない。」
秋山は二人に向かって微笑み掛けた。
「いろいろ大変かもしれないけど、頑張ってね。下手でも初心者でも、音楽好きには優しいのが、このオケのいいところだから…。」
「はいっ。」
硬い表情とはいえ、あかねの目はきらきらと輝いていた。
憧れの楽器に触れて、おまけにオーケストラにまで参加できる喜びは、すっかり彼女を虜にしていたのだ。
らんまは横からそんなあかねを黙って見つめていた。
…そんなに、嬉しいのかよ…。と。
「おおっ、若い娘ッ子がいるなあっ。新入りさんかい?」
そこへ、チェロを抱えた中年のオジさんがやって来て声を掛けた。
「あ、飯塚さん。天道道場のお二人ですよ。」
神前は、その男に答えた。
「いいなあー若い娘がいると、それだけで華があるっ。」
飯塚と呼ばれた中年男はそう言って高笑いした。
「それって、私はもう、若くないってこと?」
秋山が横から口を挟むと、飯塚が答えた。
「いえいえ、秋山さんだって若いですよ。でも、現役の高校生は香が違いますね。こう、清涼なとでも表現しましょうか…。オジさんは、高校生に弱いんです…。」
そう言いながら、飯塚はあろうことか、らんまとあかねのお尻をさわったのだ。
な、なにしやがるっ!!
飯塚の突然のリアクションに、らんまはムカムカっときた。
思わず飯塚に殴りかかろうとした。
しかし、横のあかねがすぐにらんまを遮った。
「ダメよ…。」
あかねの目はらんまにそう語り掛けていた。
らんまは一つ息を飲み込むと、殴りかかるのはやめにした。
「ちょっと、飯塚さん、それってセクハラですよー。」
神前が飯塚を窘めた。
「いやあ、ご挨拶だよ。失敬っ!!」
飯塚はそう言い残して、神前とは対極の位置にあるチェロパートの席へと笑いながら移動していった。
「ホントに、飯塚さんたら、困ったものね。」
秋山も苦笑いをしていた。
らんまは飯塚の後姿を見送りながら
…チェッ、油断なんねえなっ。
と心で呟いた。
らんま自身のお尻をさわられたことも腹が立ったが、あかねに手出しされた事が、もっと、重大事だったろう。
飯塚と入れ違いに、今度はもう少し若い男が、やっぱりチェロを抱えて二人のところにやって来た。
「さっきはどうも…。」
チェロの若い男は、そう声をかけてきた。さっきトイレであった大野だ。
らんまは飯塚のことがあったので、斜に構えた。
あかねは、手をらんまの方に突き出して牽制しながら、愛想笑いを男に送り返した。
「もう喧嘩は終わったかい?」
笑いながら話し掛けてきた。
「ええ…。」「まあ。」
さっきの体たらくを見られた手前、二人とももごもご口ごもった。
後ろからホルンを抱えた若い男が覗き込んだ。
「やあはじめまして。ホルンの坂手です。」
にこにこと朝顔を持ったまま挨拶を交わしてくる。
「華があるから野次馬が多いなあ…。ここの連中は…。」
神前が楽譜を渡しながら言った。
「そりゃあ、可愛い現役の女子高生が二人も座っていたら、男は誰だって、気になりますよ、神前さん。」
坂手は楽譜を受け取りながら答えた。
「いやあ、きょう日の女子高生って、ケバイ子が多いけど、清楚で健康的な子たちだって、さっきから評判ですよ。」
坂手はそう言いながら、ニコニコしていた。
…だから、男って油断なんねえんだ。
らんまはますます不機嫌になった。
…あかねについて来て正解だったぜっ。…
つくづくそう思った。
らんまにとって、あかねに近寄ってくる男は、全員「敵」であった。
狼のような男たちから、大切な許婚を守らなければという使命感がむらむらと湧き上がってくる。
そう、本当は、ヴァイオリンもオーケストラも、らんまにとってはどうでもよかった。
らんまを暁オケにまで足を伸ばさせたのは、あの熱っぽい一夜の約束があったからだといっていい。
あかねは、そんならんまの本音など知りもしないで、坂手と軽い会話をしていた。
…ちぇっ、人の気も知らねえで…。
らんまは会話に加わらないで、横からあかねを無言で眺めていた。
「ねえ、きみ。乱子ちゃんだっけ。もっとニッコリしたらどうかな?それとも、緊張してるのかな…。ほら、あかねちゃんみたいに笑ったら可愛いよ。」
坂手は、らんまの投げやりな表情に気付いたのか、そう言い残して、自分の席に帰っていった。
「へっ、大きなお世話だぜっ。」
らんまは、つい、小声で言い放った。
「あら、もてないからひがんでるの?」
あかねがらんまを覗き込んだ。
「うるせえっ、男にもてたって、しょーがねえだろっ。」
らんまがくってかかりかけると
「う、ウウー―んっ。」
傍らの神前が、その辺でやめとかないかと、忠告の咳払いをした。
ほっておくと、この二人は、どんな状況でも際限なく喧嘩を始めてしまう。エキサイトしてくると、周りの事など気にしないで、二人の世界に入ってしまう。
今日半日、一緒にいて、二人の事がよくわかった神前は、知らず知らずのうちに、だんだん二人の扱いに慣れてきたようだった。
神前の咳払いに、二人はおとなしく、椅子に鎮座し直した。
二、
暫らくすると、神前に少し感じの似た、おとなしそうな青年が入って来た。
「あ、山本君!」
神前は彼を認めると、手招きした。
「ちょうどいいや。こちら、この間話していた天道道場の娘さん達。えっと、天道あかねちゃんに乱子ちゃん。」
神前はやさ男に二人を紹介した。
「天道あかねです。」
「乱子です。」
一体、何度この言葉を繰り返しただろうか。
二人が揃って頭を下げると、
「セカンドバイオリンの山本弘です。」
山本もまた丁寧に二人に頭を下げた。
「二人とも、初心者で、イチからヴァイオリンのレッスンをつけなくちゃならないんだけど、山本くん、是非、協力してくれないかなあ。」
「えっ!?僕がですか?」
「君も少し、ブランクがあるって言ってたけど、同じセコバイだし、まだ2回生だから、時間的にも余裕があるでしょう?人に教えると、自分の勉強にもなるって、この前も言ったとおりだし、お願いできないかな。」
「はあ…。」
やさ男は神前の言葉に、ためらっているようだった。
神前は、あかねと乱馬の二人を同時に見ると、彼らの喧嘩の飲み込まれて、なかなか先に進めない事を、今日の昼間に実感していた。そう、彼としては、本番までの限られた時間をできるだけ有効に使って、少しでも、この二人に上達してもらいたかったのだ。それには、山本あたりの人材(時間の融通がつき易い学生で、ある程度の腕がある弾き手)のサポートが欲しいところだったのだ。
「頼みますよ。頼りにしているんですから…。」
神前はやさ男に念を押す。
「僕なんかで、いいんですか?」
遠慮しているのか、謙虚なのか、本当に自信がないのか、やさ男はためらい続けている。
…チェッ、煮え切らない野郎だな。
らんまは上目使いに、ちらちらとやさ男を見つめていた。
「わかりました。神前さんの頼みとあれば…。」
散々迷った果てに、ようやくやさ男は首を縦に振ったのだった。
そして、二人に向かって、
「僕も、補佐してヴァイオリンを手ほどきしますから、宜しくお願いいたします。」
と、わざわざ丁寧に、二人に挨拶をした。
「あ、いえこちらこそ…。」
そう言って、あかねと山本は互いの目を合わせたとたん、
「あっ。」
とどちらからとも無く声を発した。
山本とあかねは、しばらく、お互いを見つめ合っていた。
…な、なんだぁっ?
突然、見詰め合ったまま、動かない二人を見て、そばにいたらんまは、内心ムッときた。
…このヤロー、なんなんだ?あかねの奴も、どういうつもりだ?
らんまは面白くなかった。
「どうしたの?」
神前も、突然動かなくなった山本に、声を掛けた。
「あ、いえ、一度何処かでお会いしたんじゃないかって、そう思っただけなんです。」
山本は答えた。
…こいつめ、それって、女くどく時の、とっかかりのセリフじゃあねーだろなあ。
らんまは心の中でそう呟いた。
「実は、あたしも、どっかでお会いした事があったように思ったんですけど…。」
あかねは顔を赤らめてそう言った。
…おいっ、あかね…。なに雰囲気出してるんだよ。
らんまは、もっと不愉快になっていくのを感じた。
「あの、気のせいですよね。きっと。」
あかねは続けた。
「そうですね…。とにかく宜しく。」
…こんな、やさ男に心動かされたんじゃあ、ねーだろうな。
珍しく、しおらしいあかねの様子に、らんまは内心、気が気でない。黙ったまま、山本とあかねを見比べていた。
と、そこへ、日向昇がどかどかと部屋に入ってきた。
「あれっ、いつもより少し早いご登場だなあ。」
チェロの飯塚がポツンと言った。
「どうしたの。今日は偉く指揮者のご登場が早いじゃないか。まだ、七時になっていないよ。」
と飯塚が言った
「いや、今期初めてのTutti(テュッティ・合奏のこと)ですからね。」
指揮者のご登場は、通常、もう少し後なのだが…。
この常任指揮者が現れたとなると、早々に練習を開始しなければならないだろう。
オケの団員達は、各々、慌てて自分の定席につき始めた。
日向も、コントラバス用の高椅子に座り込み、指揮用の譜面台を自分の高さに調整し始めた。
らんまとあかねは、邪魔にならないように、後方のティンパニーの後ろ辺りに席を構え直した。ステージで言えばちょうど下手の袖になる辺りだろうか。横には降り番の管楽器奏者達も座っていた。
神前は、いつものように、チューニングを始めた。
ヴァイオリンを斜に構え、A線を奏でながら、443KHZの音を耳で探し当てる。
通常、アマチュアの場合、チューニングメータを駆使して、コンマスかオーボエ奏者がA(アー:実音の「ラ」)443KHZの音を拾うのだが、プロ級の腕前を持つ神前は自分の耳で十分探せるのだった。
神前はAを探し当てると、立ちあがって、オーボエ奏者に合図を送った。
暁オケの場合、神前がAを調弦してから、オーボエのトップ奏者がそれにピッチを合わせていた。人間チューナー神前なのである。
オーボエの音が安定すると、先に管楽器のチューニングが始まった。木管、金管、打楽器(ティンパニー)へと、順番にAの音が伝達されてゆく。
次に、神前が再び立ちあがり、弦楽器のチューニングに移る。ファーストヴァイオリンから順に、高弦、中弦、低弦へとAの音はリレーされてゆく。
Aのリレーが一段落すると、神前が席につく。すると、弦楽器奏者達は一斉に、他弦の調弦を始める。二本ずつの開放弦で4弦全てを調弦してゆくのだ。
4弦のチューニングが始まって暫らくすると、管楽器奏者が思い思いに、音をかき鳴らしはじめ、調子をみる。
オーケストラのチューニングはだいたいこのような手順をとる。
らんまもあかねも初体験に目を見張りながら、チューニングの光景を見守っていた。
日向が、コホン、とひとつ咳払いをすると、管楽器も、弦楽器も一斉にお喋りをやめる。急に静まり返るのだ。
いよいよ、練習が始まる。
神前が満を持して立ちあがると、団員達も一斉に立ちあがる。もちろん降り番の奏者達も立ちあがった。
それを見て、慌てて、らんまとあかねも立ちあがった。
「おはようございます。」
神前が言うと、
「おはようございますっ。」
と全団員達が元気よく声を揃える。
「おはようっ。」
指揮棒を持って、日向も挨拶する。
オケの業界では、練習が朝だろうが昼だろうが夜だろうが、始まりの挨拶は常に「おはよう。」なのである。
「今日は、新しいお客さんが三人来ています。」
神前がそのまま、団員達に声を掛けた。
「格闘オーケストラでお世話になる天道道場の方々で、天道なびきさん、あかねさん、乱子さんです。あかねさんと乱子さんは、暁で一緒に弾いて見たいということで、セカンドヴァイオリンに入ってもらうことになりました。皆さん、仲良くしてあげてください。」
神前の紹介が終わると、団員達は一斉に、楽器を手で叩き、歓迎の意を表した。これもオーケストラのお約束の一つである。
あかねとらんまは顔をあかれめながら、ペコンとお辞儀した。何時の間にか隣に座っていたなびきも軽く会釈した。
「さて、今日は恒例の初見大会です。初見の方もそうでない方も、お客様たちに羞じないよう頑張りましょう。」
神前は最後、こうくくって、コンマスの挨拶を終わった。
初見大会…パート練習やセクション練習無しでの最初の合奏練習をアマチュアオーケストラでは、こう言い表す。
奏者たちは、本当に文字どおりの初見である事もあるし、そうでない場合もあるが、どのアマチュアオーケストラも初見大会の合奏は悲惨な結果に終わる事が多い。
また、大概のアマチュアオーケストラは、初見大会の合奏は、本番を振るプロの指揮者ではなく、団内指揮者(もちろん、アマチュア)が振る場合が殆どだ。団内指揮者もコンマスだったり、他のの管楽器や弦楽器のたけた者が担当している。本番を振られるプロの指揮者先生には、何度か練習を重ね、曲が通るようになってから、お越し頂き、振ってもらうのが普通のパターンである。
でも、暁では、本番を振るプロの指揮者、すなわち日向昇先生が初見大会でも振ってしまわれる…なんとも羨ましい限りである。(注・筆者から見れば。)
「まずは、手始めに、ワグナーのマイスタージンガーから。」
神前は指揮台に上がると、曲目を告げた。
団員達は楽譜を広げると、各人楽器を一斉に構える。
そして、いつ振り下ろされも音が出せるようにと、息を整えながら、指揮棒を見つめる。
緊張感は高まり始め、頂点に達したところで、とうとうと指揮棒は振り下ろされた。
そして、管や弦の壮大な響きが部屋中に鳴り渡った。
マイスタージンガーは正確には「ニュルンベルグのマイスタージンガー第一幕への前奏曲」という。オペラの序曲だ。アマチュアがこなせる数少ない編成の大きいワグナーの楽曲である。それだけ、スタンダードだと言ってよい。
アマチュアといっても、何人か、要にプロの奏者がいる神前なので、初見の者も、彼らや日向の棒に引っ張られながら、必死でついていっていた。
木管も金管も、複雑なアンサンブルの箇所が散りばめられているが、時々、大きく音を外しながらも、空中分解することはなかった。危ない箇所もいくつかあったが、何とか無事に乗りきっていたようだ。
プロや愛好家達が聞けば耳を覆いたくなるような轟音の洪水であったろうが、らんまとあかねは生オケの迫力にすっかり呑み込まれてしまっていた。
二人とも、生まれて初めて、じかに体験する、オーケストラの生々しい響きに、目を見張るばかりだったのだ。
特にあかねは、らんらんと目を輝かせて、ヴァイオリン奏者達の腕の動きに見入っていた。隣であかねの熱っぽさを感じながら、らんまも固唾を飲んで聞き入っていた。
日向の指揮ぶりは、らんまが見ても、悔しいがキマッていた。
並々ならぬ彼の溢れんばかりの才能は、音楽のはズブの素人のらんまにもひしひしと伝わってくるのだった。
また、日向のすぐ左脇で華麗に響く、神前のヴァイオリンも光っていた。
…日向のおっさんの棒で、あれだけ真剣に音を再現できるんだ、すげえな、神前さんも…それに比べて…こいつは…
らんまは隣にいる少女の横顔を盗み見た。
危なっかしいモンなあ。不器用だし鈍いし…。やっぱ、ほっとけねえよな。暁には変な奴もいっぱいいそうだし…。
らんまは、曲を聞きながら、暁に、いやあかねに付き合う決意を固めていった。
三、
息つく暇なく、本番さながらに、日向はタクトを振り続けた。
「マイスタージンガー」「胡桃割り人形」からの抜粋曲、「アイネクライネ」「運命の一楽章」……。
何処かで、聞いたことのある、耳に馴染んだクラッシックのスタンダード曲ばかりだったので、らんまもあかねも素人なりに楽しんで聞くことができた。そして、フジミの音を満喫する事ができた。
ひととおり、配られた楽譜を弾き終えると、日向は、肩の力を抜いて、大きく息を一つ吐き出した。
「初めてのテュッティ(合奏)の割りには、上出来だったようですね。皆さんも初見でここまで弾けるのですから、随分進歩しましたね。本番が楽しみです。」
汗を拭いながら、日向は団員達に話し掛けた。
「では、十五分間、休憩しましょう。後は「マイスタージンガー」を細かく見てゆきましょうか。」
日向の声に、団員達は一斉に立ち上がって、一礼をした。
そして、各々、思い思いの休憩時間を取り始めた。
「どうでしたか?お二人さんっ。」
神前は愛器片手に、らんまとあかねの方に歩み寄ってきた。
コンマスとして、いや、気配りの神前として、初めてのお客様を放っておけなかったのだった。
そんな神前の行動を、指揮台の上から、日向の視線が冷ややかに追い掛ける。彼としては、神前の動向が気になるのだった。特に、神前がらんこといういけ好かない女と妙に親しげにしているのが気になってしょうがなかった。
「皆さんお上手ですね…。私、大丈夫かなって不安になりました…。」
あかねははにかみながら答えた。
「もちろん、スイスイという訳には行かないでしょうが、頑張れば大丈夫ですよ。譜面も初心者向きに手直ししたのを渡しますから…。で、らんこちゃんはどうでした?」
神前の問いかけに、
「ん―――と、迫力があったわっ。あたし、オーケストラの生演奏は初めてだったから、ドキドキしちゃった。きゃはっ。」
らんまはわざとらしく、女言葉を使った。
「あんたねえ、気色悪い喋り方しないでよね。」
あかねが横から合いの手を入れる。
「ははははは…。」
どうリアクションをしていいかわからず、神前は愛想笑いをした。
と、その時、らんまは身体に刺すような鋭い視線を感じた。ハッと思って、らんまが目を泳がせると、日向の眼光にぶつかった。
―何媚びてやがる…風紀を乱すな、この小娘っ!―
明かに日向の目は、らんまにそう語りかけていた。
どうやら、らんまのような女子は、この日向と言う男、超苦手なのだろう。いや、彼の五感を刺激して余りある。
完全に天敵扱いの瞳を乱馬へと手向けた。
何となくらんまも、そんな日向の視線を感じていた。
…ははは、やり過ぎちまったかな…。
休憩中のオケは、思い思いに楽器と戯れる団員達の音の喧騒に包まれる。
特に、プロオケや学生オケと違って、普段あまり音出しの機会に恵まれない管楽器の連中は節操無く轟音を張り上げる。
その音の洪水を諸共にしないような大声をfff(フォルテッシシモ)で張り上げながら、そいつは練習場に入ってきた。
と、後ろのドアバタンとあった。
そして、続けざまに、けたたましい声がした。
「遅れてもーて、すんませんーっ!」
矢継ぎ早に、大声を張り上げる。
「ほんま、すっかり遅なってもーたわっ!」
大声だけでも相当目立つのに、そいつの口調は耳慣れない関西弁だった。
…な、なんだあっ?オーケストラには似合わねえ野郎が入ってきたなっ。…
らんまは声の主の方を振り返った。
思ったとおり、そこにはオーケストラという、高尚な音楽集団には似つかわしくない色黒で筋骨の整った体育会系の迷彩服を着た男が突っ立っていた。
背中には瓢箪型のヴァイオリンケースとバックパックを背負っている。
「ほんまに、かなんわー。宿替いなんて、うんざりやわっ!!」
…賑やかな野郎だなあ、できれば関わりあいになりたくねえタイプだな…。
らんまがぼんやり眺めていると、フイに迷彩服男の視線とぶつかった。
…や、やべーっ。
らんまははっとして、すぐさま視線を外しにかかったが、遅かった。
「なんやあ、見かけへん顔の娘がいるやんか。新入りさんか?」
迷彩服男は明かにらんまとあかねに興味を抱いてしまったのだった。
そして、林立する譜面台の林を掻き分けて、歩み寄って来る。
「ちわーっ、神前さん。」
迷彩服男は傍らの神前に先に声を掛けた。
「あれ、元ちゃん、今日はお休みするって言ってなかったけ?」
神前が答えると、
「おかんや姉貴たちにこき使われるの、もう、かなんから、途中でほったらかしてきたんですわー。」
「引越し、途中ですっぽかして来た訳?いいのかなあ、そんなことして。」
「ええんです、ええんです。箱根の関越えるっちゅうーて、おかんなんかは大騒ぎしてましたけど。」
「そっか、これで元ちゃん家も首都圏入りしたわけか。」
「ええ、家族五人と一匹、揃いましたわ。俺も下宿を引き払って、実家暮らしに逆戻りです。」
迷彩服男はそう言うと、白い歯を剥き出しにして、ニッと笑った。
らんまは端で神前と迷彩服男の会話を聞き流していた。この短い会話の中で、迷彩服男の知りたくもない現状の情報があからさまにらんまの耳に流れ込んでくるのが、面白かった。
…ホントにけたたましい野郎だな。
迷彩服男は神前と会をを交わしていても、らんまたちの事が気になって仕方がなかったようだ。ちらっちらっと視線がこちらに流れてくるのがらんまには良くわかった。
と、神前と迷彩服男の背後から、いきなり顔を出してきた女性がいた。
歳の頃は二十五、六といったところの髪の長いひょろっとした女性だった。
「元(げん)ちゃん、魔よけのお札よ。」
女性は迷彩服男の耳元でいきなり呟いた。
「うわーっ、びっくったーっ。な、なんや、玲子さんかいな。驚かさんといてーやっ。」
突然耳元で、囁かれた迷彩服男は飛びあがった様子だった。
玲子と呼ばれた女性はニヤーッと笑った。なんだかとっても雰囲気のある笑い方だった。
女性は、何やら白い紙切れのような物を迷彩服男に差し出してちらつかせた。
「新居の居間の鴨居にでも貼りつけておくと効果があるわよ。変な霊なんて、近寄ってこれないわ。とーっても有難いお札だからね。ま、私のささやかな引越し祝いよ。遠慮なく受け取ってね。」
女性はそう言って、ふふふと笑った。
「お、おおきに。」
迷彩服男は、後ろに一歩さがりながら、白いお札を受け取った。
…な、なんか雰囲気のある女性だなあ…。
傍らでらんまは女性をじっと見つめていた。
「相変わらず、玲子さん好きだなあ、お札とかいったレトロな物。」
神前が横から口を挟むと、
「だって、元ちゃんてアクが強いから、変な動物霊なんかが一緒に新居に棲みつきそうだから…。魔よけになる物が必要だと思って。わざわざ用意したのよ。」
玲子が言うと、
「人を悪霊みたいに言わんといてんか。」
迷彩服男は突っ込んだ。
「ねえ、神前さん。」
その迷彩服男の突っ込みは見事に無視されて、玲子は今度は神前に視線を向けて話し掛けた。
「はい?」
玲子は神前の方へ向き直った。
「おい、こら、玲子さん。俺の話からいきなり方向転換せんといてくださいよ。」
玲子に無視されて、拍子の抜けた関西人はヘソを曲げたが、玲子はさらにそれを無視して言葉を神前に向かってすすめたのだった。
「神前さん、あなた、運勢が下降しらり上昇したり、変化が何時になく激しいみたいね。」
そう言って、玲子は神前の顔をじっと見詰めた。
「ウーン、下降のピークはここひと月っていったところかしら。とんでもない事が身の回りに起こるかもしれないわ。気をつけてね。」
「えっ、やだなあ、何、それって。」
見つめられてドギマギして神前が返事すると、
「そこまではわからないけれど、ま、注意するにこしたことはないわ。」
玲子は言った。
「神前さん、気ぃつけた方がいいですよ。玲子さんがそう、言ってはるならね。玲子さんの霊感って、良く当たるって評判なんすからね。」
元が横から割り込んだ。
「あはははは、そうだね。用心したほうがいいかな。」
神前が気にするように、玲子、この「白峰玲子」の霊感は良く当たった。
この時の神前には当然、身に降りかかる災いを知る由も術もなかったのだが。
「ねえ、神前さん、ところで、こちらの可愛らしいお嬢さんたちは?」
迷彩服が聴きたかったことを、先に玲子が訊いてきた。迷彩服男も頷きながら興味津々の面持ちで目を輝かせた。
「ああ、彼女たちね。天道道場のお嬢さんたちですよ。」
一体、今日、このセリフを神前は、何度口にした事だろう。
「そっかー、例の格闘オケの…。二人とも可愛いやないですか。高校生かナ?」
「そっ、現役のネ。こちらが天道あかねちゃん、こちらが乱…子ちゃん。」
アブナイアブナイ、又「乱馬」と口にしそうになった神前だった。
「セカンドヴァイオリンの入ってもらって、本番にも何曲かのってもらうつもりなんです。仲良くしてあげて下さいね、元ちゃん、玲子さん」
神前はにこにこしながら二人を元と玲子に紹介した。
「ラッキーっ!!セコバイねっ。俺とおんなじやん。」
神前から紹介されて、迷彩服男は飛びあがって喜んだ。
…ちぇっ、軽い奴だなあ。
らんまは目の前の迷彩服男の様子に、また、ムッとなった。
男って奴は、ちょっと可愛い娘を目の前にすると、すぐ、調子を合わせてくる。油断も隙もあったものじゃあない。とにかく、狼どもからあかねの純潔を守ってやらなければならない。それにしても、この迷彩服男の軽さは何なんだろうと、らんまは半分あっけに取られていた。
「僕、高野 元。はじめっていう字は元気の「元」やから、みんな、元とか元ちゃんって呼んでくれてます。いやあ、あんたらみたいな可愛い娘っ子がセコバイに来てくれたら、華があってええ感じや!練習にも気合が入るっちゅうもんやわ。よろしゅうなっ。」
元は早口でまくしたてた。そして、右手を二人の前に差し出した。
…け、けたたましい野郎だな、ったく。
元の機関銃のような関西弁にらんまは一瞬引けを取ってしまった。
それがいけなかった。
その僅かな隙をついて、この関西弁男は、らんまの手をグイッとヒ引っ張った。そあひて、思いっきり自分の方に引き寄せた。
…えっ!!?
この迷彩服の関西弁男、高野元は、乱子いやらんまのおでこに、見事にキスを決めたのだった。
らんまの時が一瞬、凍りついた。
当たり前だ。男の唇がいきなり、デコに吸いついて来たのだ。
あまりに突然のリアクションだったので、凝固したらんまは暫らく動けなかった。
この凝固した時間もまた、らんまには命取りになった。
男にキスされた驚きと怒りが、身体の奥から湧きあがり、ダウンロードされるのに少しばかり暇があった隙に、元は今度はあかねの方に向き直っていた。そして、事もあろうに、あかねの額にまで、唇を押し付けていたのだった。
つづく
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