もどる?

薫雨


「ちぇっ!降って来ちまったか。」
 雨が降る少し手前、ふんとその匂いを感じる。さっき感じたのは強ち気のせいではなかったようで、バラバラと屋根に当るくらいの雨粒が降り注いできた。
 だが、雨音はすぐに子供たちの元気な歓声に打ち消されてしまった。
 じめっとした不快感。梅雨独特の気候だ。動くとすぐに汗がだらだらと額や首筋、いや全身から流れ落ちる。拭っても拭っても、それらはキリが無い。いや、この湿り気を含んだ空気のせいで、乾かないのだ。
 皮膚が湿り気を帯びたまま動き回ると、また、新しい汗が身体から噴出す。悪循環。
 木張りの床も湿気を含む。滴り流れ落ちる汗や、空気中の湿り気で足の裏も不快。
「わあっ!」
 思っている先に一人の子供が滑った。大方、湿った床に足を取られたのだろう。
 ドタン、と重い音がした。
「大丈夫かあ?」
 乱馬は床に倒れ込んだ少年に声をかけた。
 暫くその子は床に突っ伏していたが
「大丈夫っ!!」
 と声が聞こえた。
「よおっし。強くなったな。」
 乱馬はその子に手を優しく差し伸べると、くんと引き上げてやった。
「怪我はしてないか?」
「うん、ちょっとだけここんところを打った。」
 少年は肘をさすって見せた。
「そっか…。そのくらいなら平気だな。直也も受け身が取れるようになったな。」
 乱馬は少年にそう声をかけた。
「俺、強くなりたいもん。お師匠みたいに。」
 へへっと少年は嬉しそうに乱馬を見上げる。
 乱馬はそれに微笑み返すと、バンと手を打った。
「よっし!今日はここまでにしておこう。」
 取り組んでいた子供たちが一斉に動きを止めた。それから、決まりごとのように、ペタンと床に正座する。姿勢を正し、正面に居る乱馬に向かって声を張り上げた。
「ありがとうございましたあっ!!」
 乱馬もそれに返礼し、言った。
「後片付けに入れっ!今日は床が湿ってるから、丁寧に雑巾がけしておけよ。」
 
 ここは街中のとある幼稚園の講堂。
 乱馬はここへ週一度、出稽古に来る。幼稚園の教育の一環として取り入れられた武道教室。そして、その延長の時間、幼稚園児たちが帰った後、この辺りの小学生たちが汗を流しに来る。大抵、ここの卒園児たちだ。幼稚園を出た後も、こうやって週に一回でもと、乱馬の稽古をつけてもらいに来る子供たちばかり。
「直也、兄ちゃんの健也はどうだ?まだ、良くなんねえのか?」
 乱馬は汗を拭きながら、さっき、すっ転んだ少年に尋ねた。
「大分と良くなったけど。まだ流行るからダメなんだと…。」
「そっか…。長いなあ。この季節の病は。直也は大丈夫なのか?」
「あ、俺もかかったけど、酷くなかったんだ。すぐ直ったし、ぶつぶつも殆ど出なかった。」
「へえ…。双子でも水疱瘡の係り具合が違うって訳かあ…。」
「お師匠のとこの赤ちゃん、元気?」
「ああ…。おかげさまでな。」
「あかね先生は?」
「元気だ。」
 乱馬は先頃、父親になったばかり。あかねもここの幼稚園で稽古に来ていたこともあり、直也はその教え子でもある。
「先生、さよならーっ!」
「また来週っ!!」
 片付けが終わって、着替えた子から、帰り始める。
「ああ、気をつけて帰れよ。」
 乱馬は靴箱の脇に立つと、一人一人に声を掛ける。急に振り出した雨。傘を持って来た子や、母さんが迎えに来る子、千差万別。
 ここの園長先生も一緒に脇に立って子供たちを見送る。

「早乙女先生、傘はお持ちなの?」
「あ…。いや。」
「そう…。困ったわね。傘を持たずに来た子たちに、置き傘を持たせちゃったから…。全部出払っちゃったわ。」
「俺ならいいですよ。濡れて帰ります。」
「でも…。」
「ご心配なく。慣れてますから。」
 
 そう、変身体質を解いた彼は、もう、前にみたいに、雨に濡れたからとて女性化する訳ではなかった。それに、修業で山へ籠り切りになるときなど、雨に濡れるのは、子供の頃から馴れっこになっている。
 降り出した雨は、薄暗くなる空からひっきりなしに降り注いでくる。

「乱馬。」

 後ろで声がした。
「あかね?」
 予想していなかった来訪者に、乱馬は驚きの声を上げた。
「あらあら、あかねさん、お久しぶりね。」
 園長先生がにこにこと迎えてくれた。
 通り一遍等の挨拶を交わし、あかねは傘を窄(すぼ)めて乱馬の脇に来た。
「おめえ…。赤ん坊は?」
「今、お義母さまとお義父さまが見てくださってるわ。乱馬、傘を持たずに出たからって。たまには息を抜いてらっしゃいってお義母さまが。」
「で、迎えに来たって訳か。」
 まだ産後、ひと月来るか来ないかのあかね。現在、手慣れぬ子育てに紛争中の新米ママだ。二人の間に出来たのは玉のような男の子。元気で良く母乳を飲み、良く泣く。琢馬(たくま)と名付けた。
「あかね先生。」
 隣りで声がした。
「あら、直也くん。久しぶりね。」
 あかねは声の主に話し掛ける。
「おめえ、まだ居たのか?そろそろ帰らねえと…。病気で寝てる兄貴が心配するぜ。」
「健也くん、病気なの?」
「水疱瘡だそうだ。」
 この時期は昔から疫病が流行りやすい。梅雨のじめじめとした空気が病を運ぶのだろうか。
「傘持ってないのか?」
 乱馬はもじもじしている直也に声を掛けた。
 こくんと垂れる小さな首。
「そっか…。母ちゃん、仕事で迎えに来れねえんだよな…。」
 またこくんと垂れる。
「あかね、一本貸せ。」
 そう言うと、乱馬はあかねが差してきた傘を直也に差し出した。
「ほらよ、貸してやるよ…。次の稽古のときに返せよ。」
「でも、あかね先生の傘は?」
 躊躇した直也が問い返す。
「なあに…。傘はもう一本あるからな。」
 ウィンクしてみせる。
 直也は微笑を一つ返すと、
「じゃあ、借りてく。」
 とあかねから濡れた傘を受け取った。
「さよならーっ!お師匠、あかね先生、園長先生。」
 だっと雨の中を駆け出す直也。
「厳禁な奴だな…。」
 乱馬はふっと微笑んだ。
「さてと…。俺たちも帰ろうか。園長先生、また来週。」
「そうね…。たまには、こういう光景もいいわね。あかねさん、元気で。子育て頑張ってね。」
 園長はにこっと笑うと、奥の方へと入って行った。

 ボスンッと音がして開く傘。少し大きめの男性用の濃い色の傘。
「ほら、入れよ。」
「何よ…。偉そうに…。あたしが持って来てあげたんでしょう。」
 相合傘。直也にあかねの傘を貸したので、今は一本きり。
 あかねはちょこんと乱馬の横へ肩を並べた。
 それからゆっくりと歩き出す。

 雨はポツポツと嬉しそうに傘の上を跳ねる。乱馬は外側の手に傘を持ち替えると、あかねの肩を真ん中の方へ抱き寄せた。
「何緊張してるんだよ…。」
 くすっと笑う。
「緊張なんかしてないわよ…。」
 ぼそっと返答。
「そっかあ?力入ったようだったけど。」
 楽しそうな乱馬の声。
 道行く人たちが、微笑ましげに、揺れる相合傘を見ながら通り過ぎる。親になったとはいえ、まだ、若い二人。夫婦というより恋人に見える年齢だ。いや、当人たちにはそんな他所からの視線はどうでも良い事。
 傘の中は、不思議な空間になる。そこだけが周囲から浮いてしまったような。一つの世界になるのだ。バシャバシャと路面で跳ねる雨音と、傘の上を叩く雨音。そして、すぐ傍のぬくもり。
 水溜りに気をつけながら、ゆっくりとアスファルトの道を行く。
「昔は雨が嫌だったのにな…。」
 ぽつんと乱馬が言った。
「なんで?」
「だって、そうだろ?こうやって肩に雨が掛かって、冷たいって感じたら、次の瞬間、女に変身っ…だったんだぜ…。こうやって、相合傘してると、いつ変身するかって、結構気を揉んだもんだぜ。」
「へえ…。体裁気にしてたんだ。乱馬って、女の子からもててたもんね、あの頃は。」
「そうかあ?」
「そうよ。だって、あたしは乱馬と相合傘なんて、数えるくらいしかしてない筈だもの…。他の子とは結構気安く相合傘やってじゃない。右京とかシャンプーとか。」
「あのなあ…。たく…。俺が変身したくねえって思ったのは、おめえと傘の下に居る時だけだぜ。人聞きの悪い。まるでそれじゃあ、どっかの色男かナンパ男だったみたいな言い方じゃねえか。」
「違うの?」 
 少し意地悪い目で夫を見返した。
「怒るぞ…。」
 そう言って握り拳をあかねの肩に押し付けた。こういうヤキモチは学生の頃から変わっていない。
「ねえ、雨がかかって変身してしまうのは辛(つら)かった?」
 ぽつんとあかねが訊いて来た。
「辛いっていうより、うっとおしかったな。いや、情けねえと言うべきか。好きな女の子の肩も雨の下じゃあ満足に抱けねえなんて。…尤も、あの頃の俺は、こうやっておめえの肩を気安く抱けるほど長けちゃあいなかったけどな。」
 そう言って笑った。
「あたしは、気にしてなかったな…。」
「あん?」
「だって…。女に変身してても、乱馬は乱馬だったもの。あたしは、あんたが男でも女でも、どっちでもよかったわ。それに…。」
 一つ、息をすうっと飲み込むと
「喩え未だに変身体質を引きずっていたとしても、あたしは、乱馬と結婚してたと思うわ。だって、乱馬はあたしにとっては立派な男だったもの。変身しようがしまいが…ね。」
 ザアッっと雨脚が少し強くなった。
 思わず引き寄せる細い肩。包み込むように抱き締める。
「乱馬…。積極的になったわね。」
「素直になっただけだよ…。あの頃よりも…ほんの少しだけど…な。」

 傘の動きが止まった。二人の時が止まった。

 乗用車が一台、ブーンと低い唸り音を上げて、二人の傍を通り抜ける。バシャバシャと音をたてながらアスファルトをタイヤが滑ってゆく。
 
 雨の空間に止まった傘は、またゆっくりと動き出す。
 薄暗くなった街角の電灯が、下りてきた闇に溶け出す雨霧の中にぼうっと揺らめいて見えた。
 二人の影を見送りながら、夜は帳を下ろしてゆく。 







とある未完成作品の後日譚として書いたもの…でも肝心な本編は挫折して途中で投げ出して久しいです。
一度迷って、手がぱったり止まると、なかなか書けないのが私の悪いところです。



(c)2012 Ichinose Keiko