蒼き稜線 第二章 乱馬編 前編 半官半民 原作
一
清々とした空気が大地を覆い尽くしていた。
夜明け前。もうすぐ朝日が昇る。一日の内で今が一番気温が低い。新鮮な空気と凛と張り詰めた緊張感が辺りを漂う。
「なあ、乱馬。本当に奴は来るだろうか・・・。」
「ああ・・・絶対来る。あいつはいつもこの辺りの山で餌を漁ってやがる。もうじきここへ現れる。それとも何か?獣左は怖気ついたのか?」
にっと笑って傍らの少年は一回り大きな体つきの少年に声を掛けた。
「いや・・そん訳じゃねえけど・・・。」
獣左と呼ばれた少年が罰が悪げに答えた。
「この狩が終わったら、俺たちもいよいよ成年式だ。その宴に絶対あいつを仕留めてやるんだ。」
乱馬は槍をぎゅっと握り締めて闇の向こう側を見た。
「成年式かあ・・・。俺たちもいよいよニセの仲間入りか・・・。」
獣左はにたっと乱馬に笑いかけた。
「なんだよ・・・。気持ちの悪い奴だなあ・・・。」
獣左の含み笑いに思わず乱馬に張り付いていた緊張のベールも解けた。
「だってよ・・・。ニセの仲間に入るってことは・・・。女を抱けるってことだぜ。わくわくしねえか。」
獣左はにんまりと笑みを含んだ。
「ちぇっ!おめえもそんなことに浮かれてやがるのか・・・。」
乱馬は舌打してこの仲間をじろりと見下ろした。
「どいつもこいつも、ニセになると女が抱けるってそればかりか・・・。」
乱馬は不機嫌そうに吐き捨てる。
「乱馬・・・。おめえ、女抱いてみたくねえのか?」
獣左は不思議な物を見るように乱馬を見返した。
「別に・・・。抱きたいとも思わねえな・・・。女なんか抱いて何になるんだ?たかだかガキを作るためだけに居るようなもんだろ?それより俺は・・・もっと強くなってもっと広い世界を見てみてえ・・・。強い奴といっぱい渡り合って、俺が一番強くなりてえ・・・。女よりこの世界は力だ。力がないと女も攫って来れねえ・・・。何にもできねえんだ。まだまだ女にかまけている場合じゃねえしよ・・・。」
乱馬は明けゆく空を眺めながら言った。
彼らは戦闘民族「龍族の末裔」と自ずからは言い放つ。だが実際は「北の蛮族」と呼ばれ、近隣の邑々からは恐怖の眼差しで恐れられている一族であった。
というのも、彼らは徹底した合理的男民族で、女の民は皆無であった。戦闘の民にとって女はただの子供を孕む道具に過ぎない。そういった理念を持っていた。だが、男は男。単体では子は成せぬ。子種を残すために彼らは定期的に近隣の邑々を襲った。そして子を産める産女(ウブメ)を掻っ攫ってくるのだ。端的に言えば「略奪」。女は略奪してくるものであり、攫(さら)った女を洞穴に閉じ込める。彼らにとって女とは愛しいものではなかった。
子供を作れるのは成年式を終えた「ニセ」と呼ばれる青年期の男と、その上の「シコ」と呼ばれる壮年期の男だけだ。「チゴ」と言われる少年は、女に触ることは出来なかった。
もうすぐ「チゴ」から「ニセ」へと変わる。
成年式を終えれば、立派な「ニセ」として一族のために率先して働く。狩も略奪も子作りも。
「来たっ!」
乱馬は鋭い眼光をまだ暗闇が広がる夜の森へと向けた。
獣左も一緒に槍を構え、じっと乱馬の視線の先へと眼を凝らす。
確かに何か居る。気配が動いた。
「いいか・・・。奴が姿を現すまでじっとしてるんだぜ!息を潜めろよ・・・。」
乱馬は呟くように獣左に言い含めた。
ごくりと獣左の咽喉が鳴った。
奴は獰猛と現れた。彼らが狩ろうとしている物、それは、この草原を牛耳る獣王、銀豹の白壁だ。
白壁は果敢な雄豹で、この辺りの狩場を我が物顔に駆け巡る孤高の豹だ。賢い頭脳を持ち、いつも乱馬たち一族の隙をついては、狩りの邪魔をする。この原始豹たちはある程度の群れを成して生きている。毛皮は衣服に持ってこいだ。豹は狩るのがなかなか大変である。肉もそこそこ美味い。
乱馬たち一族にとっては羨望の獲物であり、標的であった。自分で狩ってきた獣の皮を剥ぎ、己の衣服を作るのは、この原始社会ではごく普通のことだった。身に纏う毛皮が、狩るのに難しい獣であればあるほど、男たちの羨望の眼差しは強くなる。
こと、この「白壁」と呼ばれている銀豹は、名前を付けられているだけあって、乱馬たち一族の願望にも近い獣であった。
奴は小賢しく、強い。今まで何人もの仲間が奴を狩ろうとして深手を負っている。
また、奴の一族の豹を狩ろうとしても、必ずと言って良いほど巧みに邪魔に入る。女豹も子豹も奴の庇護にある物は巧みに逃げて捕まえることができない。
ここ何ヶ月間は、全く銀豹の獲物は手に入れられない状況が続いていた。
乱馬は奮起した。
まだ、経験も浅い彼らチゴの年長者たちには絶対狩りは叶うまいと大人たちは諌めたが、乱馬は挑んでみたかった。やっと狩場への単独行動が許される歳になって、白壁を狩りたいという思いは強くなっていった。
乱馬はじっと眼を凝らした。鋭い眼光は獲物を求めて止まない野性が宿る。是が非でも狩りたかった。大人たちに無理だと言われるたびに挑戦したくてうずうずしていた。
やっとそのチャンスが巡ってくるのだ。
(奴を狩るのは俺だ・・・。)
白壁の後ろには毛並みが美しいもう一匹の銀豹がゆっくりと付き従うように歩いていた。
はっとするような輝く毛並み。奴の女房だろうか。
白壁の毛並みはごつごつしていて、修羅場を潜り抜けていた威厳に満ちていた。雌よりも一回りも大きなその身体は精悍で、近寄り難い威厳を持ち兼ねていた。雌豹の更に後ろにはよちよち歩きの子豹が二匹。まだ毛並みは白くは無く、どちらかといえば茶かかっていた。犬っころのように丸々と太り、美味そうな感じであった。
「行けっ!獣左っ!!」
乱馬は合図した。
獣左は心得たもので、その合図に一気に草原へと飛び出した。
白壁の耳が動いた。奴は唸り声を上げて警戒しはじめた。
獣左は白壁ではなく、雌豹へと狙いを定める。矢をつがえ、ひゅんっと打ち放つ。矢は僅かに雌豹を逸れて飛び交った。
雌豹はだっと駆け始める。子豹らもそれを追う。弱肉強食のこの時代にあっては出遅れることは即ち死を意味する。懸命に奴らは乱馬たちから逃れようと走り出す。
獣左が再び矢に手を掛けたとき、光陰のように現れた影があった。白壁だ。
奴は獣左の頭上を飛越えてすっくと立った。この先へは行かせない。奴の目はそう光り輝いていた。
獣左が矢を構えて打ち抜こうとしたその瞬間、奴は身をくるりと翻し、果敢にも向かってきた。
「わあっ!!」
獣左は後ろへと尻餅をついた。
と、乱馬はそのときを待っていたかのように槍を横から突き出した。
ウーッ!!
低い唸り声が白壁から漏れた。
奴はもう一人の不埒者の存在を見抜いていたらしい。
乱馬の槍の狙いは辛くも外された。白壁は寸でで避けて飛んだ。
「ちぇっ!」
乱馬は舌打ちした。奴の方が最初の一撃は上手をいったのが悔しかった。大抵の獲物は彼の槍の動きを見切ることは出来ない。一撃で沈むことが多かったのである。だが、それは草原に生きる小動物との狩りである。所詮小物は小物なのである。乱馬の槍をかわした白壁の方が上手をいくのは至極当然のことであった。
乱馬の間合いから少しだけ外れた白壁は、低い姿勢で身構える。
次に繰り出されるかもしれない攻撃に備えて臨戦態勢に入っているようだった。何処へでも走り出せるように構える白壁の身のこなしは流石だと乱馬は舌を巻いた。獣のクセに戦いの術を知り尽くしている。
「ようしっ!獣左っ!行けーっ!!」
乱馬は叫んだ。
その声に反応するように、獣左が横から突っ込んだ。
白壁はその行動を待ちかねていたかのように、身を翻した。
「あっ!」
獣左の攻撃をさらりと買わすと、白壁は猛速攻で逃げにかかった。
「何っ!?」
白壁の性格上、絶対に挑まれた戦いを避けずに突っ込んでくると見越していた乱馬は完全に裏をかかれた状態になった。あれよあれよという間に白壁は乱馬たちの間を抜けて走り去ってゆく。
「くそっ!行くぜっ、獣左っ!」
「お、おうっ!」
二人は躍起になって白壁を追った。狩人の意地だ。絶対に捕まえてやる。それだけが二人を突き動かしていた。草原の向こう側では別のパーティたちが狩りを企てている。白壁をそちらへ追い込めば或いはまだチャンスはあるかもしれない。乱馬はそう判断した。
遠ざかる白壁を懸命に追った。
草原は少し先で途切れている。この辺りは標高が結構高い山岳地である。彼らの狩場はこの草原とその向こうの山合いだ。この辺りの地形、地理は知り尽くしている。そんな油断が彼らを窮地に追い込んだ。
他の仲間たちが狩りをしている奥の山地に追い込んで、再び対峙しようと考えた乱馬であったが、白壁の方が一枚上手であった。
そう、白壁は雌と子豹らが逃げ遂せたのを確認すると、くるりと乱馬たちの方へと再び取って返してきた。獰猛な彼は敵愾心を沸々と湧き立たせながら、その美しき巨体を追っ手の二人の方へと翻したのである。
「うわーっ!」
最初に悲鳴を上げたのは獣左。白壁は前足で軽く獣左の額を蹴り上げた。彼の額から血が流れ落ちた。
「獣左っ!!」
乱馬は思わず声を荒げた。獣左はその場へともんどり打って倒れたのが眼に映った。
「くそっ!」
乱馬は槍をぎゅっと握り締めると、立ち向かってくる白壁に向かって構えた。白壁の殺気が突き進んでくる。
「負けるもんかっ!」
乱馬も必死だった。最初の一撃を交わすと、また向かう白壁に今度は乱馬の方から突っ込んでゆく。
白壁は待ってましたとばかりに、彼の攻撃を軽くかわした。
乱馬は振り向きざまに再び体制を立て直そうと身体を捩った。と、その時だった。足元がいきなり崩れた。気がつかなかったが、何時の間にか草原の西端の崖まで自分が追い込まれていたのである。朝靄が視界を遮って、彼の地理感覚がすっかり鈍っていたのである。
「うわーっ!!」
止まることを知らず、乱馬は崖の斜面を転げ落ちていった。
「乱馬ーっ!!」
遥か上のほうで獣左が叫ぶのがぼんやりと耳元へと響いてきた。
そして乱馬の意識はふっと遠のいていった。
二
どのくらい時間が経過したのだろうか。
ふっと乱馬は墨の焼ける匂いに目が醒めた。辺りはすっかり暗くなっていて、星が彼を上から照らしつけていた。
「やあ、やっと目が醒めたのかい?」
傍で男の声がした。
「!!」
乱馬は戦闘一族の本能から、がばっと身を起こそうとした。が、途端に全身に痛みが走った。
「ダメだ!そんなに急に身体を起こしちゃっ!!」
男は慌てて彼を制した。
「君はあの崖から落ちたんだ。もう少し大人しくしてい給え。」
温厚な声は彼を急き止める。
ぼんやりと目が暗闇に慣れてきた。傍らでは火の気配がした。焚き火の赤い火が一人の男を照らし出していた。
「君もかなり頑強な少年だねえ・・・。普通、あの高さから落ちたら無事ではいられないだろうに。余程鍛えこんであるんだね。咄嗟に身体を庇う手段を身につけているんだ。」
男は笑いかけてきた。
「あ、あんたは?」
乱馬は男に向かって初めて言葉を投げかけた。
「名前を聞く前には自分から名乗らなきゃ・・・。普通はそうだろ?」
男はにやにや笑いながら乱馬を見返した。
「俺は、乱馬。北の一族だ。」
彼は無愛想に話した。
「北の蛮族か・・・。」
乱馬の顔はそれを聞くと一瞬緊張した。己たちは「龍の末裔」と呼んでいたが、他民族たちからは「蛮族」という蔑称を投げられていると聞いたことがあったからだ。まさに目の前の男は嘲笑気味にそう吐き出したではないか。彼の身体は自ずと強張る。
「そう、構えるなよ・・・。君がどこのどんな部族だって、怪我人は怪我人だ。私は東風。見てのとおり、野営中の薬師だ。」
「薬師?」
乱馬はきょとんと覗き込んだ。
「ああ、この辺りの部族ではないがね・・・。」
「薬師さんが、こんな夜中に何してんだ?」
乱馬は不思議そうに東風を見返した。どう見ても東風は怪しい男だった。本当に薬師なのか。或いは己が一族を壊滅させようと企てる部族の斥候か何かではないかと疑えたからだ。
「月露草(ゲツロソウ)を摘みに来たんだ。」
「月露草?」
「ああ・・・。これからの季節、欠かせない薬草の一つだよ。この季節のこんな月夜の露に濡れた物しか薬用にならない伝説の草さ。この辺りにしか自生していないからな。」
東風はそう言うとにんまり笑った。
「何に効くんだ?」
乱馬はじっと彼を見返した。東風という男に興味が湧いてきたのだ。彼の闘人としての本能が、この男の発する気が尋常でないことをとうに見抜いていた。
(こいつは強い。それも相当に・・・。)
戦慄を覚えるほど彼の闘気はびりびりと刺激されてゆく。
「そうだなあ・・・。君みたいな満身創痍の患者に効くかもしれないなあ・・・。」
東風は愉快そうに笑った。決して彼の闘気は際立ってはいないが、不気味なほど研ぎ澄まされている。それがまた乱馬には不気味に思えた。
「とにかく、今晩はゆっくりと寝ることだ。身体が痛くてぐっすりと眠れないのも何だろうから・・・。ほら。何か食べればいい。」
東風は火にくべていた石器を器用に外して土器へと何やら良い匂いがする液体を注ぎ込んだ。
「熱いから火傷しないように。」
そう言いながら差し出す。
乱馬は受け取ったが、暫し考えるように見詰めた。
「警戒してるのかい?」
東風はやれやれというように乱馬に切り替えした。
「何も入っちゃいないよ・・・。まあ、さっき摘んだばかりの月露草は少し入れてあるけれどね・・・。僕も一緒に食べるから。それなら平気だろ?」
そう言うと東風はもう一つの土器へと液体を注ぎ込んだ。そして、ふうふうと冷ましながら咽喉の奥へと流し込む。
乱馬はごくんと咽喉仏を鳴らした。若い身体は空腹には敏感だ。よく考えると朝から何も食していない。そう思うと急に腹が減った。
美味しそうに液体を啜る東風につられて、彼は恐る恐る口を土器へと近づけた。
土くれの臭いがツンと匂った。
それを堪えながら液体を口へと流し込んだ。
「うめえ・・・。」
乱馬はほっと吐き出した。久しぶりにお腹へ入れるものであったが温かく五臓六腑へと染み込んだ。
「だろ?僕の料理の腕も確かなもんだ・・・。ゆっくり飲むんだよ。空腹にいきなり沢山流し込むと返って身体に良くないからね。」
乱馬は黙ってその液体を食した。薬草や穀物を煮えたぎらせたような味であったがあっさりとした塩気が利いていて、空腹を満たすには丁度良かった。
「お代わりもいいからね。あ、だけど、アクがきついから二杯までに止めておき給えよ。」
東風は空になった容器に再び熱く煮えたぎった液体を注ぎ込んだ。乱馬は無心にそれを貪るように飲んだ。力がお腹の底から湧きあがるような不思議な感覚を覚えた。
「さてと・・・。腹が満たされたら、今度は休眠だよ・・・。一晩ここで火をくべているから、夜風は冷たいが大丈夫だろう。少しゴツゴツする寝床だけど、我慢してくれよ。」
東風はそう言うと、草を敷き詰めて設えた寝床を指差した。
「世話になります・・・。」
乱馬は丁寧にそう答えると、床へと横たわった。
さっきのスープで身体はほこほことして温かかった。
この季節、ぼちぼち木枯らしも吹き出すので流石に夜は冷える。東風は何処から持ってきたのか、毛皮を乱馬に差し出した。
「これを上から被っておけば、朝の冷気にも耐えられるだろう・・・。」
何から何まで至れり尽せりとはこのことを言うのだろうか。
「東風さん、とか言ったよな。こんな立派な毛皮何処から持って来たんだ?」
乱馬は横になりながら東風を見た。さっきの彼の話では「この辺りの部族ではない」と言っていた。この時代、旅をすると言っても交通手段は殆どが足だ。毛皮など持ち歩ける筈が無い。乱馬が疑問に思うのも当然であった。
「この付近の廃屋からくすねて来たんだよ・・・。」
東風は声を落として乱馬にそう答えた。
「廃屋?」
乱馬は聞き返した。
「ああ・・・。廃屋だ。今は暗くて見えないだろうが。明日、太陽が昇れば改めてこの辺を見てみるがいい。ここにはかつて邑(むら)があったんだ。」
「人はもう居ねえのか?」
乱馬は東風を見ながら問い掛けた。
「人っ子一人、犬っころ一匹たりとも気配はないよ。」
「ふうん・・・。疫病にでもやられたのかな・・・。」
乱馬は空を見上げて言った。満点の星達がざわめきながら見下ろしている。
「そんな生易しいもので滅んだのではないよ・・・。この邑は・・・。」
東風はそこまで言うと言葉を詰まらせた。暗くて良く見えなかったが彼の顔は俄かに曇った。
「じゃあ、なんで滅んだんだ?」
「君らの一族に滅ぼされたんだ・・・。」
東風は静かに言い放った。
焚き火が一瞬揺らいだ。パチンと大きな音がして木が裂け、炎の粉が辺りへと飛び散った。
乱馬の表情は一瞬にして凍りついた。
三
「君らの一族に滅ぼされたんだ」
東風は確かにそう象った。聴き間違いではなかった筈だ。
乱馬は身動き一つせずにじっと東風の口元を眺め続けた。
「もう、何年も前からこの邑は薬草畑で賑わった邑だった。邑中、薬師が溢れていて、そこいらの邑々から身体が傷ついた人々が療養を求めてやってきた。云わば療養の邑だったんだ。」
東風はゆっくりと火に木をくべながら話し始めた。
遠い日の記憶を辿るように彼は一つ一つ噛み砕くように乱馬に話して聴かせた。
「人々は腕利きの薬師の治療を受けながら安穏と暮らしていた。あの日までは。」
東風は火を見詰めながら静かに語る。気の乱れはなく淡々とした口調であった。まるで絵空事を話しているように単調であった。
夜語りとはこのようなことを言うのだろうか。
「あの日、あいつらはこの邑を襲った。新月の夜だった。この邑には薬師は居ても武人は居なかった。立ち向かう術も無く、奴らの暴力に沈んだんだ。火の手はそこここから上がり、逃げ惑う人々を奴らは面白そうに狩っていった。翌日残ったものは、抵抗した男たちの死体と荒れ果てた家屋、そして、放心した老人や子供たちだけだった。女たちは根こそぎ攫われて、邑の活気は消え果た。消沈した人々はこの忌まわしい記憶が残る邑を捨てた。生き残った人々も残らず去った。後に残ったのは雑草のように蔓延(はびこ)る薬草だけだ・・・。」
東風は語り終えると、彼は火にまた木をくべた。
「何年くれえ前の話だ?」
乱馬は聞き耳を立てながら吐き出した。
「さあ・・・。僕も人づてに聞いただけの話だから。正確な年はわからない・・・。」
「じゃあ、単なる噂話って可能性もあるわけじゃねえのか。確証もねえ話なら・・・。」
「いや、確かに略奪はあった。北の連中はここへ来た。」
「何でそんなことが断言できるんだ?おめえはここに居たわけではねえんだろ?」
「荒らされた後は消えはしない。疫病や天変地異で人々が移り住んだのなら、焼け落ちた家屋や割れた土器が散乱もしないだろう。ここに薬園があったことは確かなんだ。僕も一介の薬師の端くれだ。噂だけで何が言えよう・・・。」
東風はふっと溜息を吐いた。
乱馬は黙った。確かに己の部族が襲った邑のなれの果てかもしれないと思ったからだ。
彼はまだチゴなので襲撃に加わったことは無かった。
物心つきし日から、何度となく、大人たちが女を攫って邑へ帰ってくる祝勝の宴が繰り返されてきた。
一年に三度、彼らは女たちを囲ってくる。そう春の宴、夏の宴、秋の宴。そう決められていた。
女が囲われてくると大人たちは一斉に色めき立つ。
チゴは邑はずれの一角で育てられる。大人たちの饗宴が何を意味するものなのかは、ある程度の年頃にならなければ意識もしなければ興味も持たなかった。
いや、それは己だけのことかもしれない。
実際、乱馬は他のチゴたちと比べると、好色には疎かった。女の肌が柔らかいか触り心地が良いかなどという話には一向に興味が向かなかった。特に女を憎悪しているとった感情もなかったが興味も湧かなかった。
また、「攫われた邑の末路」についても興味が無かった。増してや東風が淡々と語ったことなど、知ろうとも思わなかった。
「強い男がこの邑に居なかっただけのことじゃねえのか・・・。」
乱馬は嘯くように呟いていた。
彼の価値観は「強い」か「弱い」かなのだ。
戦闘部族に相応しく、乱馬は「強さ」に対してだけは異様な執着を持っていた。
幼い頃からその傾向が強かった。勝気一辺倒のこの少年は、「強さ」への憧憬は人一倍強かったと言ってよいだろう。
彼にとって強さは絶対的な条理であった。
東風は彼の言葉には何も答えなかった。ただ黙って火をくべながら暖を取った。
夜の帳は深々と二人を包み込む。
乱馬は傷ついた身体を持て余しながら、眠りに落ちた。
さっきの煮汁にはヒツジ草でも入っていたのだろうか。
乱馬はやがて柔らかな寝息をたて始める。深い深い眠りの淵へと引きずり込まれるように落ちていった。
「確かに・・・強い男が居れば、或いはこの邑も君たちの一族から守れたかもしれない。あの子も死ぬことはなかったのかもしれない。僕にもう少し力があったなら・・・。」
東風は眠ってしまった乱馬を眺めながら、深い溜息を吐いた。
空を仰ぐと、流れ星が一筋の線を引きながら稜線へと消えていった。
後編へ続く
(c)2012 Ichinose Keiko