4
ブキミな笑みを残して立ち去った男の存在が、急に俺の心に重圧となってのしかかってきた。通り過ぎざまに言い放たれた言葉が、何度もエコーとなって俺の頭の中を駆け巡る。
あかねはそいつに貰った薔薇をしきりに愛でながら、芳醇な香りを楽しんでいるように見えた。
俺は嫌が応でも、不安に苛まれてゆくのを感じずにはいられなかった。
・・・そんな、薔薇、捨てちまえ・・・
心の中で幾度もそう叫んでいた。なびきがその場にいなければ、俺はきっと強硬手段に出ても、薔薇をあかねから取り上げるような大人気無い行動をとっていたかもしれない。
苦虫を食むような思いで、あかねを見詰めていると、ひょいとうっちゃんが顔を出した。
「あかねちゃん、どうや、加減は?」
お好み焼きのパックを右手に携えながら、うっちゃんがドアから入って来た。
「なあ、あかねちゃんの記憶がなくなってしもたってほんまか?」
うっちゃんは心配しているというより、好奇の目であかねを見詰めながら俺に尋ねてきた。
すると、その背後でまた声がした。
「あかね、そのまま記憶ないままいてくれると、わたし、大変ありがたいね。」
シャンプーだった。
いきなり、そんな失礼なことを言われても。肝心のあかねはきょとんとしていた。
「あの、あなた達は・・・。」
あかねは困惑の表情を浮かべて、二人の乱入者に問い掛ける。
うっちゃんとシャンプーは反応が薄いあかねを見て
「やっぱり、ホンマやったんや。」
「私達のことも憶えてないらしいあるね。」
と俺のすぐ後ろでこそこそ言い合っていた。
「ここはお互い、乱ちゃんをあかねから引き離すチャンスの到来かもしれへんで。」
「そうあるね。この最良的な状況を逃す手はないね。」
二人の会話は俺には筒抜けに聞こえてくる。
まったく、こいつ等ときたら、どんな姦計を巡らせても、肝心の俺があかね以外の奴に想いを寄せる気が毛頭ないことに気がついていないらしい。相変わらず、いい根性している。
「あかね、乱馬のこと憶えているのか?」
突然シャンプーが俺を指差した。
「え・・・。あの。」
あかねは口篭もった。俺との関係は誰もあかねに教えていないはずだった。闇雲に混乱させてもいけないと思い、俺も天道家のどの人間も「俺とあかねは許婚同志」であることは表明していない。
俺は腕組したまま黙ってあかねを見詰めていた。
あかねは記憶を辿る素振りを見せていたが、やはり、俺のことを思い出せないでいるらしかった。
「この前から、ずっと傍に付いていてくれるみたいだけど・・・あなたは・・・。」
あかねの目が切なげに俺に向けられる。それが痛々しくて俺は思わずあかねから目を反らせた。
「やっぱり、思い出されへんみたいやで!」
「これは画期的好都合あるね♪」
後ろでそう声がしたかとおもうと、いきなり前へつかつかと出るや、うっちゃんが俺の右腕にしがみ付いてきた。
あまりに突然のうちゃんの行動に、俺は避ける手だてを知らなかった。
「ちょっと、うっちゃん!!」
焦る俺にうっちゃんは耳打ちする。
「ショック療法や!乱ちゃんはウチの言う通りにしたらええ。」
そう言い終わるや、
「乱ちゃんはウチの許嫁やねん。」
いつものあかねならここいら辺りで、ヤキモチの拳を振りかざしてくるだろうが、あかねはいたっておとなしかった。
かわりに、シャンプーが怒号を上げた。
「右京!抜け駆けは許さないね!乱馬は私の婿殿ね!」
そう金切り声を上げて俺の左手にしがみ付いてきた。
「お、おいっ!」
二人同時に抱きつかれて、堪らず俺は声を荒らげる。
あかねはそんな俺を不思議そうに見詰めている。
今度はそこへ、黒薔薇の花びらが・・・
「ホーホッホッホッ」
花びらの乱舞とともに甲高い笑い声が響いてきた。
「お二人とも、乱馬さまからお離れあそばせっ!厚かましいっ!」
また、ややこしい奴の登場に病室は暗雲に包まれる。
「おまえこそ何ね!乱馬は私の婿殿!」
「違う、ウチの許嫁や!」
「私のフィアンセですわっ!」
口々に好き勝手罵り始める。
「あの・・・あなたって、女好きなんですか?」
あかねが突拍子もない疑問を俺に投げかけてきた。
「ば、ばかっ!そんなんじゃねえ!」
俺はそれなりにあかねの言葉に傷ついた。
・・・俺はおまえの許嫁だっ!!・・・
心の中でそう叫ぶと、俺は戦線から離脱しにかかった。
そう、居た堪れなくなって、病室から逃げ出したのだ。我ながら情けない選択だと思ったが、そうせずには居られなかった・・・
そんなすったもんだがあったせいか、あかねは明らかにそれ以来、俺から一線を引くようになった。
記憶を無くしたあいつは、本当に俺がいい加減な「女たらし」に見えたのかもしれない。
俺とて、本当はきちんとあかねとの関係を説明をしてやるべきだったのだろうが、どう言葉を選んで良いのやら、この期に及んでさえも皆目見当がつかず、結局、あかねに何一つ言葉を掛けることができなかったのだ。
また、同時にそれ以来、俺はあかねの傍に居ることすらままならず、遠目に見詰めることしかできなくなった。
それほど、「俺の恋」は不器用だったのかもしれない。
5
病院からの帰り道、俺は複雑な想いを胸いっぱいに抱え込みながらトボトボと歩いていた。
昼間の男のことが頭から離れないで居たが、病室に残る訳にもいかず仕方なく家路についたのだった。病室の看護はあかねの姉、かすみさんと俺のオフクロが交代で泊まりこんでいる。
もちろんあかねの事が気にかかっていた俺は、後で辿り着いた良牙に
「あかねのことを頼む。」
と言い残して、病室を出た。
塩らしく頼みこむ俺を良牙は訝しがったが、お人よしのあいつは快諾した。きっと「黒豚Pちゃん」に変身して今頃はあかねの寝床に潜り込んでいるはずだ。
夕なずんだ空は暗く、街灯がひとつ、またひとつ、ぽっと暗闇に浮かび上がってゆく。
俺は一人、夕闇に影を落しながら、あかねのことをずっと考えていた。
・・・この先、どうあいつと向き合っていけばよいのか・・・失われた記憶は戻るのか・・・俺は許嫁として、傍についていてやっていいのか・・・
己の想いが次々に逆流してゆく。
「クウーン」
いつのまにか、一匹の犬が俺の傍らを歩いていた。
白い毛並みの牡の若犬だった。
「何だよ・・・俺はおめえが喜びそうな物は何一つ持っちゃあいないぜ・・・」
邪見に扱うのもはばかられて俺はそう話し掛けた。
おそらく、どこかの飼い犬が離れたのだろう。毛並みは野良のものではなく、艶やかだった。美しい白色をしていた。牙は凛々しく、血統書でもついているのではないかと見紛うほど利口そうな顔つきをしていた。
犬はじっと俺の瞳を見据えた。そして、俺について天道家まで来てしまった。
あまりに馴れ馴れしく、俺の傍からちっとも離れようとしないので、大方、呪泉郷がらみの客かもしれないと、俺は変に気を回してしまったくらいだ。
呪泉郷で溺れて以来、変身体質になった俺の前には、同じ身の上の客人が時々ひょっこりと現れる。もう、慣れっこになっていた俺は、案外こいつも呪泉郷で溺れた輩かもしれないと思ったのだ。それも不思議ではあるまい。
俺は天道家の門をくぐると、玄関から入らずにお勝手口に回って、台所にいたかすみさんにやかんのお湯をねだった。
「何するの?」
かすみさんはにこにこしながらやかんを持って来てくれた。
俺はやかんを受け取ると、ずっとついて来た犬におそるおそる湯を浴びせ掛けた。
湯煙の向こうには、何の変化もない白い牡犬が湯しぶきを奮っていた。
「何、神経質になってるのよ・・・。」
先に帰っていたなびきが勝手口から顔を覗かせてからかってきた。
それには答えず、俺は犬に向き合った。
「なんだ・・・只の犬公だったのか・・・。おまえ。」
犬はしきりに尻尾を立たせて身体を摺り寄せてきた。
「よっぽど、乱馬くんのことが気に入ったのね・・・ワンちゃん。」
かすみさんが笑った。
「よせよ・・・牡の犬に言い寄られても嬉しくネエぞ・・・。」
俺は苦笑する。
「お腹すいているでしょ?ご飯あげましょうか。」
かすみさんはそう言って勝手口の奥に消えた。
犬は、俺と二人きりで夜の中に取り残されると、何を思ったのか、道場の方へ向かって歩き始めた。
「お、おいっ。何処行くんだよ。」
俺は犬に話し掛ける。
犬はついて来いと言わんばかりに俺に尾を振りながら合図を送っているようだった。
「待てって。」
俺は、天道家にそいつを連れ込んだ責任上、目を離す訳にもいかず、犬の歩く方向に歩み出した。
犬は道場の裏側の隅っこで止まった。
「あれ・・・?」
犬の止まった先を見て俺は声を出した。道場の脇の木陰に古びた井戸があったのだ。
「こんなところに前から井戸なんてあったっけ・・・。」
天道家の隅々まで知った気でいた俺だが、こんな井戸の存在は今の今まで気づかないでいたのだった。
「その井戸ね、今は使ってないけど、随分昔からウチにあったのよ。」
かすみさんがお椀にエサを入れて持ちながら後ろで笑っていた。
井形に組まれた木の枠もその上に被せてある蓋も、腐りかけていた。
「もう、とっくに水は枯れ果てて、空洞があるだけだから、埋めてしまってもいいんだけど・・・井戸ってなかなか埋められない物みたいなのよ。」
エサを置きながらかすみさんが言った。
犬は井戸端を一回りして、鼻でくんくんやっていたと思うと、やおら片足を上げてマーキングの行為(もとい、立ちションベン)に打って出た。
「お。おいっ!こらっ!人んチで何するんだよ!」
俺は慌てた。
「まあ、お茶目な犬さんね。」
かすみさんは相変わらずのおっとり口調でそう言うと笑いながらお勝手口の方へと引き返して行った。
「たく・・・何考えたんだよ・・・おまえは・・・。」
俺はぶつくさ犬にブウたれていたが、足元に異物を感じて視線を落した。
「ん?」
何だろうと気になって、俺は暗がりの中へ目を凝らした。
薄い青い色の輝きが瞬いたように思えた。
「石っころ?」
俺はそれを拾い上げた。
擦り減った碁石より少し大きめの長細い蒼白な塊だった。真ん中にきれいな丸い穴が一つ開いている。自然石ではなく、明かに人の手が加えられた痕跡がある石ころだった。
「きれいだな・・・。」
俺が石ころを手に取ると、犬は尾っぽを振りながら見れてくれと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「おい・・・くすぐったい。」
俺は犬の鼻息に思わず身体をよじる。バランスを崩して土の上に仰向けにひっくり返った。
「何すんだよ・・・たく・・。」
砂埃を払おうとしたとき、また、何かが土の上で光った。
また、さっきと同じように目を凝らすと、同じような石ころがまた一つ、身体の元に転がっているのが目に入った。
「また・・・。」
拾い上げてみると、さっきと同じく、真ん中に穴が開いた石ころだった。違うのは、さっきのが蒼い輝きを放っていたのに対し、今度のは赤い血のようなくすんだ輝きを放っていたことだろう。
ぞっとするほど鮮明な血の色で輝きを持った石っころだった。
犬は物珍しそうに、俺の背後からやはり石ころを覗き込んでいた。
「ふーん、勾玉みたいね。」
不意に後ろで声がした。
なびきだ。
「なんだ、脅かすなよ・・・。」
俺はなびきに言った。
「まがたまってなんだ?」
俺は振りかえりざまになびきに問い掛けた。
「古代史の教科書か資料集にでてきたでしょ・・・。古代人の装飾品みたいな加工品よ。憶えてない?」
なびきはふふんと鼻を鳴らしながら答えた。
「勾玉ねえ・・・。言われてみれば、見たことがあるような石っころだな。」
なびきに諭されて俺はまたしげしげと石ころを眺めた。
「でも、なんでこんなもんがここに落っこちてんだ?」
俺は更に疑問を投げかけた。
「そんなこと私にわかる訳ないでしょ・・・。なんなら私が貰ってあげましょうか?」
なびきが答えると、犬が低く唸り声をあげた。
「何よ・・・この犬・・・。私が持ったらダメっとでも言いたげね・・・。」
犬はわんっと一つ吠えた。まるで「そのとおり。」となびきに返事をしているようなタイミングだった。
「わかったわよ・・・乱馬くんが持ったらいいのよね・・・。」
なびきは気分を害したのか、それ以上は突っ込まずに母屋の方へと引き上げて行った。
この石ころが実はとんでもない代物だったということは、後々になってから気づかされることになるのだが、その時の俺には、この勾玉の重要性が全く判っていなかったのだ。
それはさておき、この白い犬は天道家の食客として、暫らく放し飼いで庭先に置かれることになったことと、石っころは俺が持つことになったことを付け加えておこう。
6
それから、3日後にあかねは無事に退院した。
しかしながら、彼女の記憶は終ぞ戻らなかった。
あかねの記憶はグラウンドで倒れたその日からふっつりと途切れている。始めは記憶を失った混乱から精神的に不安定になることを天道家の皆や俺は一番気掛かりだったのだが、そのような素振りもなかった。記憶を失ったことにすら何も感じることがないのか、無表情に近いことの方が、俺には正直、気掛かりでならなかった。
・・・こいつは、記憶を失ったことに対して、どう思っているんだろうか・・・
あかねを見るにつけ、俺からはそのような疑問が持ちあがる。あかねから、精気が一切抜けていることに気がついていたのは案外俺だけかもしれなかった。いや、単なる俺の思い過ごしだったのかもしれないが・・・。
退院の日は折りしも、学校も休業日で天道家の家長の早雲おじさんがあかねを迎えに行った。おじさんは心から愛娘の帰宅を喜んでいた。
俺はあかねが帰宅した丁度その時、親父と小競り合いを展開していた。
ことの発端は、いつもの食べ物がらみだった。
「このクソ親父っ!返せって言ってんじゃあねえか!!」
「イヤーなこった!」
「俺の小遣いで買った肉まんだ!それは!」
「一つくらい、ワシに寄越せと言うもんじゃ!」
「てめ―の為に買ったんじゃあねえってさっきから言ってるだろうが!」
「息子が買ったものは親であるワシにも食う権利がある。」
「おめえに貰った小遣いじゃあねえ!オフクロから貰ったんだ!」
「かあさんのものはワシのもの・・・息子のものもワシのもの・・・ほれっ!」
「あーーーっ!!てめえーっ!食いやがったなっ!!」
親父の大人気ない立居振舞いに頭に来た俺は、いつものように反撃に打って出たのは説明することもないだろう。無言のまま、俺は背後に回り、右足で思いっきり親父を蹴り飛ばし、 庭の池の中に突き落としてやった。それくらいしないと、腹の虫がおさまりそうになかったからだ。
俺の猛反撃を食らった親父は、お約束のようにドバしゃ―んっと池の中に勢い良く突っ込んで行った。
「ばふぉーっ!」
水飛沫を上げながら、池の中から巨大パンダが姿を現わす・・・水を浴びて変身した親父だった。
蓮の葉を頭に乗せた親父は、「バフォッ!!」と怒りの雄叫びを上げると、今度は俺を池の中へ引き摺り込んだ。俺もつい、油断していたので、親父の反撃をかわすことができず、親父に引っ張られるままに池の中へと吸い込まれた。
ちょうど、そのタイミングで、あかねが玄関から上がってきて、縁側伝いの廊下に立ったところだった。
水飛沫が俺の身体を包み込み。俺は・・・男から女へと変身を遂げていた。
「ちめてーっ!!」
俺はふてくされながら水の中からずぶ濡れの半身を現わした。
あかねははからずしも池の中でずぶ濡れになっている俺たち親子を見て、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、余程可笑しかったのか、ぷっと噴出した。そして、その場にへたり込んで笑い転げた。
「ごめんなさい・・・あなた達の仕草が余りに面白かったから・・・。」
あかねは、よじれそうなくらい笑い転げていた。
あかねはモチロン、パンダ親父のコトも女の俺のことも記憶から欠落しているらしかったが、おかまいなしに笑い続けた。
俺は久しぶりに、あかねの笑顔を見たような気がした。記憶をなくして以来、始めて声をたててあかねが笑っている・・・奇妙な満足感が俺の中を渡ってゆくの感じた。
・・・こいつの笑顔はやっぱり、輝いてやがる・・・
悔しかったがそう思わざるを得なかった。俺は人知れす赤面したのだ。
その一件以来、あかねは女の方の俺にすっかり心を許してしまったようだった。
精気が薄らいでいたあかねだったが、女の俺と居る間は、楽しげに話し掛けてくる。男の俺の前でも見せない笑顔を瞬かせて、他愛ないお喋りを楽しんでいる。
そんなあかねの様子を見て、当然天道家の面々は、俺にあかねの前では男の姿ではなく、ずっと女の姿のままいることを強要した。
男の姿の俺は三人娘の乱入以来、明らかにあかねに避けられているので、仕方がないとは思った。が、ずっと女のままでというのはさすがにきつかった。勿論頑なに抵抗したつもり だが、「許嫁の勤めを果たせ」とワケのわからないこじつけで俺は女のままで暫らく過ごすことになってしまったのだった。
・・・情けない。
でも、少しでもあかねに笑顔が戻るのなら・・・あいつの笑顔が傍で見ていられるのなら・・・俺は自分なりに許諾して、女のまま生活をすることを受け入れたのだった。
あかねの笑顔・・・それは何にも変え難い俺の宝物だったから・・・。
7
「乱子ちゃん、一つ訊いていい?」
道場で汗を流していた俺にあかねは浮かぬ顔をして問い掛けてきた。
退院の日以来、俺はずっと「乱子」としてあかねの前で通している。だからと言って、修行をサボる訳でもなく、俺は暇を見ては男の時と同じくらい(いや、それ以上に)道場で過ごす時間もきちんと持っていた。
身体を鍛えぬいておかなければ、あかねを守れない・・・危機感にも似た心情がまた、俺を激しく揺さぶって居た事も確かだった。
退院して3日目、あかねはまだ、学校へは行っていない。
「何だよ・・・訊きたいコトって。」
流れ落ちる汗を手で拭いながら俺はあかねを振り返った。
「乱子ちゃん、好きな子いる?」
突拍子もない疑問だった。
「は?」
俺は何をどう答えるべきか戸惑って思わず力強く訊き返していた。
「だから・・・乱子ちゃん、恋したコトある?」
あかねは大真面目に真っ直ぐに訊いてくる。
「あ、あるといえばある・・・かな・・・ないかもしれねえ・・・し・・・。」
俺はもごもご口篭もる。
「あるんだ・・・ねえ。今も恋してる?」
あかねはにこやかにストレートに訊いてくる。
俺は戸惑った。当たり前だ。している・・・と正直に答えるべきか否か。
「乱子ちゃんって思ってること案外すぐ顔に出るのね・・・恋してるんだ。」
とあかねは屈託無く笑っている。
・・・おめえに言われたかねえよ・・・。
俺は内心ムッとした。
「乱子ちゃんの想い人ってどんな人かな・・・」
「不器用で、寸胴で、がさつで、気が強くって、意地っ張りで、泣き虫で、鈍感で・・・。」
俺はあかねに聞こえるか聞こえないかの小声でつらつら答えてやった。
「いいな、好きな人のこと、はっきり言えて・・・。」
あかねの顔が曇ったのが気になって俺は
「どうしたんだ?真剣な顔して・・・あかねらしくねえ。」
と訊き返した。
「ん・・・ちょっとね。」
あかねは空を見上げた。
「気になるのよね・・・。」
そしてふっと溜息をはく。
「何が気になるんだよ・・・。」
「乱子ちゃんなら、私が好きだった人のコト知ってるかなあ・・・ねえ。」
あかねは俺に向き直る。俺は少しうろたえた。
あかねが好きだった奴・・・多分、俺のことだ。確証はないが・・・。
「好きだった人って?」
おどおどしながら訊き返してみた。
「良くわからないけど、気になる人が一人いるの・・・。」
「す、好きな奴でもできたのか?」
俺は内心ハラハラしながらも気になる奴のことが訊いてみたくなった。
「気になってるだけ・・・よ・・・。好きだったのかさえ思い出せないから・・・。」
あかねは寂しそうに笑った。俺はなんだか身が引き千切れるような気持ちになっていた。
「最近、見掛けなくなったけど・・・お下げ髪の男の子・・・」
・・・やっぱり、俺のことか・・・
あかねの口から俺のコトが出て、少し安堵した。
「お下げの男の子がどうかしたのか?」
「いつも、私のこと優しげに見詰めていてくれた・・・何も言わなかったけど・・・彼、のこと思い出したい。」
「・・・・・・。」
「でもね、怖いの・・・彼のこと思い出すのが・・・。」
「何でだよ・・・。」
「だって、その男の子、女の子達に追いかけられていたわ。もてるのかしら・・・それともいい加減な奴なのかしら・・・。なんて考えちゃって。」
「それで気になるってのか・・・。」
「ううん、それだけじゃない。彼のこと思い出そうとすると邪魔が入るの。」
「なんだ?そりゃ・・・。」
「頭の中で誰かが囁くの。」
「あん?」
「・・・汝全て忘れ去り、新しき世界へ我とともに来れ・・・って。」
「何だ・・・それ。」
「男の声が頭にはっきり響くの・・・次の満月の夜、私を迎えに行くからって・・・。」
「満月?」
「ええ、それだけ言っていつも声は途切れるわ。」
「いつもするのか?そんな声・・・。」
俺は自分の心が焦りに支配されるのを感じていた。
・・・ひょっとして、この前の男・・・。
その場にいるわけでもないのに、急に不敵な笑みが脳裏に広がる。
「ねえ、乱子ちゃん。私っておさげの男の子のこと好きだったのかなあ?ねえ、乱子ちゃんならわかる?」
必死の形相であかねが女の俺に縋(すが)ってきた。これは尋常ではないと俺なりにあかねの危機を汲み取っていた。
「おめえの気持ちは俺にはわかんねえ・・・。でも、一つだけ言えることがある。」
俺は一呼吸吐いて、あかねに話し掛けた。
「俺は、いや、おさげの男は、おまえを一番大切に想ってるって・・」
「どうしてわかるの?」
あかねは不思議そうに俺を見詰めた。
・・・そうだ・・・こいつは俺の正体を知らないんだ・・・。俺は目を反らせてそっと呟いた。
「俺にはわかるんだ・・・今度そいつに会ったら直接、自分で訊いてみな・・・。きっと言うさ・・・おまえを愛してるって・・・」
それだけ言いきるのが精一杯だった。切なかった。
ホントならここで男に戻ってやっても良かったが、あかねをますます混乱させそうなので自重した。
「ごめんね、修行の邪魔しちゃって。ちょっと話して落ちついたわ。満月のことはお姉ちゃんたちやお父さん達には言わないでね。私の空耳かもしれないから。」
あかねはそう言って立ち去った。
「次の満月・・・。」
俺はそう繰り返して、再び激しく道場の中を躍動しはじめた。
・・・何かがあかねの背後で渦巻いている・・・。
俺の研ぎ澄まされた直感が更に不安を掻き立てる。
守ってやらなければならない・・・いや、守らねば・・・あかねは俺の大切な存在だから・・・
俺の漠然とした不安が現実となってしまった日・・・それは満月の煌煌と輝く三日後の真夜中のことだった・・・。
つづく
(c)2003 Ichinose Keiko