まほろば
第一章


 ジメジメした空気の倦怠感は、気分まで暗鬱とさせる。
 梅雨・・・
 はっきりしない空はどんよりとした雲煙を棚引かせ、今にも泣き出しそうな空模様だった。

「待つねーっ!乱馬っ。」
「待ちいやっ!乱ちゃんっ!」
「お待ちになって乱馬さまぁっ!」

 俺は、シャンプー、うっちゃん(右京)、小太刀の三人娘に追い掛けられていた。
 学校の校門前で、待ち伏せしていた、彼女達にとっ捕まってしまったのだった。
 只でさえ蒸し暑くて鬱陶(うっとう)しいのに、何だってこいつ等は俺にこうまでして絡み付いてきやがるんだろう・・・。
 とにかく、俺は、こいつらの執拗なデートの誘いから逃れるべく、いつものように逃げ惑っていたのだ。
 始めは単に競い合うがの如く、只、俺を追い掛け回しているだけの彼女たちだが、激高してくるとそこに「格闘」の要素が加わり出す。お互いを牽制しながら、飛び道具が持ち出されるのだ。これもいつものことだから、別に気にしちゃあいなかった。
 中国式武器、お好み焼きの巨大ゴテ、新体操用のリボンやボール・・・。様々な形態の道具が少女達の手元から繰り出されるのだ。

 そんな物騒な鬼ごっこを、いつも脇から覚めた目で見詰める視線もまた、いつものことだった。俺の許婚のあかねだ。

  ・・・もう、勝手にやってよね・・・

 そんなふうに思っているのだろう。

・・・俺だって好きで逃げてんじゃあねえよ・・・

 俺も、また、いつものように心の中でもそんな表情のあいつに悪態を吐いていた。
 でも、油断をしていると、追い掛けてくる少女達の餌食にされかねないから、思考はすぐに止まり、逃げおおせる手だてだけを考える。
 それがいけなかったのかもしれない。

「お願いだから、これ以上、俺に構うなっ!!」
 そう言って俺は振り向きざまに、彼女達の仕掛けてきた飛び道具を、ひとつひとつ掴み取り、投げ返してやった。
 彼女達の攻撃から逃れる為に、敢えて、反撃にでることにしたのだ。
 別に深い考えがあって、そんな行動に出たのではなかった。攻撃は最大の防御・・・それを実行したに過ぎなかった。三人娘はそれぞれ勘のいい運動神経をしているから、それを避けるだろう。その隙を狙って逃亡を遂げる・・・只それだけの陳腐な作戦だった。
 思った通り、彼女達は俺の突然の反撃に驚いてはいたが、咄嗟に投げ返された飛び道具を器用に避けた。
 ところが・・・。

ドスッ!!

 後方で鈍い音がした。

ドサッ!!

 続いて誰かが倒れるような音もした。

「え゛っ!?」

 俺は音のした方に目を見やり、ドキッとした。
 視野の中にあかねが倒れているのが映ったから。

「あかね?」

 シャンプーやうっちゃん、小太刀の攻撃をそこそこに、俺は倒れたあかねの方に向かって駆け出した。
「おいっ!!あかねっ!」
 俺は夢中であかねを呼び覚ました。でも、あかねは地面に突っ伏したまま、目を閉じていた。
「しっかりしろっ!あかねっ!!」
 俺はあかねを自分の腕に抱えて揺り動かしたが、反応がなかった。

「ちょっと乱ちゃん、あかねちゃん、それが当たったんとちゃうやろか?」
 うっちゃんが傍らに転がっていたこん棒を指差しながら言った。
 下校途中の生徒達がぞろぞろギャラリーとなって集まり始めた。
「そ、そんな・・・。何で。」
 俺は、放心したまま、あかねを抱いていた。
 武道の嗜みのある、あかねがこん棒一つ避けられない筈がない・・・他の何かに気を取られていたのだろうか・・・
 取り乱しながらも、そんなことを思っていた俺は、その矢先、一瞬、背後に何か沸き立つどす黒い「気」を感じた。薄ら寒い悪寒を伴うような、妖艶とした気だった。
 はっとして振り返ったが、そこには何も無く、クラスメイト達の顔が見えただけだった。
「救急車だっ!誰か早くっ!!」
 集った連中はざわめき立ちながら、あかねと俺を取り巻きつづけた。
 あかねは目を閉じたまま、力なく、俺の腕の中で気を失い続けていた。




「幸い、外傷もなく、脳波にも異常は認められませんから、二、三日で退院できますよ。」
 病室に回診に来た医者が、俺や天道家の人々にそう告げた。
 あかねは近くの総合病院に担ぎ込まれたのだった。
「ありがとうございました。」
 あかねの父、早雲おじさんが深々と頭を下げる。
「私はこれで。何かありましたら枕もとの呼び鈴で看護婦を呼んで下さい。」
 医者は軽く会釈すると病室を出て行った。
 ドアが静かにしまった後、慌てて駆けつけた天道家の人々は、皆、一様にあかねを不安げに見つめ続けていた。
 心配なことに、あかねはまだ目覚めなかったのだ。
 ここには、あかねの父、早雲おじさんを始め、かすみさん、なびき、俺の親父のパンダ、オフクロが顔を覗かせていた。

・・・もし、このままあかねが目覚めなかったら・・・

 内心、俺は気が気じゃなかったが、黙ったまま、腕組して病室の端っこにポツンと突っ立っていた。
 重苦しい時間が、どのくらい続いたのだろう。

「う・・・ん。」
 あかねは小さく声を立てると、ゆっくりと目を開いた。
「あ、あかね・・・。」
 最初に声を掛けたのは、早雲おじさんだった。
「あかねちゃん。」
 続いてかすみさんが目覚めたあかねを覗き込みながら声を掛けた。
『あかねちゃん』−パフォフォ。
 パンダのまま家を飛び出したらしい親父までが看板で呼び掛ける。
 俺も、皆の背後から、ちらっとあかねを見詰めていた。やっと目覚めたあかねに安堵したのだ・・・だが、その安堵はすぐに、不安に取って代わった。
 あかねはたくさんの顔に覗き込まれても、それに答えることなく、きょとんと視線を辺りに泳がせるだけだった。
 そして、
「あの・・・失礼ですが、皆さんは?」
 あかねの口からこのような言葉が漏れたのだった。
「あかね?」
 早雲おじさんがいきなり何をという表情で訊き返すと、
「あかねって・・・あの。誰です?私のこと??」
 始めは軽い冗談かと思った。
「何言ってるの。あなたはあかねちゃんよ。」
 とかすみさんが取成しても、あかねは見詰め返すばかりだった。
「あの・・・どうして、あたし・・・あの・・・思い出せない・・・ああ、あたし。」
 あかねはそのまま頭を抱え込んだ。


「記憶障害ですね。」
 あかねの異変に病室へ掛け込んで来た医者は気の毒そうに言った。
 皆は不安に駆られながら、医者の説明を熱心に聞き入っていた。
「脳波やレントゲンには異常が認められませんから外科的には大丈夫でしょう。日常生活には不自由はしないと思います。」
 医者は淡々と言い続ける。
「あの、それで、あかねの記憶は戻るのでしょうか?」
 当然の疑問を早雲おじさんは問い掛ける。
「それは、なんとも・・・。今日明日中にもどる可能性もありますし、長くかかることも・・・。申し上げにくいのですが、こればかりは・・・。」
 医者は要領を得ない答え方をした。
「まさか、一生・・・。」
 縋るように早雲おじさんが問い掛けると、
「最悪の場合は・・・」
 医者も言いにくそうに、語尾を飲み込んで言った。
「努力はしてみます・・・。皆さんも患者さんを刺激しないように暖かく見守ってあげて下さい。ご家族の愛情が或いは失った記憶を早く甦らせることもありますから。」
 医者の言葉は、俺の胸中を激しく揺さぶった。

・・・俺のせいで、あかねは・・・

 激しい自戒の念とあかねへの想いが一気に心の中で荒れ狂い始めていた。

 あかねは打たれた鎮静剤が効き始めたのだろう。何時の間にかベットの中で静かに寝息をたてていた。

 医者が立ち去った後、天道家の者と居候達はあかねの枕元でこれからを語り合った。
「仕方がないわね・・・。ここはじっとあかねちゃんの回復を待ってあげるしか。」
 長姉のかすみが口を開いた。
「それしか方法もなさそうだしね・・・。」
 となびき。
「そうね。今は皆であかねちゃんを見守ってあげましょう。大丈夫、きっとあかねちゃんは思い出すわ。」
 オフクロもそう言って自分で自分を納得させていた。
「あかねー。あかねー。」
 早雲おじさんは横でそう言いながら涙に暮れていたし、俺の親父まで一緒になって泣いていた。(パンダのままで)

・・・何で、こんなことに・・・
 俺は俺で、葛藤が始まっていた。
 原因を作ってしまった俺自身に不甲斐なさを感じていたし、誰もそのことを指摘して悪態の一つも言わないでくれていた。
 他の誰よりも、ホントは俺が一番衝撃を受けていたと思う。
 俺の顔も、いままで重ねてきた二人の日々も、あかねは全て忘れてしまったというのだろうか・・・それも俺のせいで。
・・・ちきしょう!!・・・
 俺は、皆の背後でひとり、拳を握り締めていた。

 俺たちはあかねの記憶喪失が人為的に引き起こされたものだとは思いも寄らなかった。不幸にして引き起こされた事故だと信じて止まなかった。
 そう、誰一人、彼女にさし迫っていた「魔」に気付くことが出来なかったのだ。




 あかねは医者が言ったとおり、一部の記憶が欠落してしまったこと以外は至って平穏で身体も元気になっていった。ただ、記憶を無くしたということで、大事をとって一週間ばかり入院が長引くことになってしまったが。
 天道家の人々は、あかねの様子を見るために、順番で病室を見舞っては、静かにあかねを見舞っていた。はじめは記憶の混同で、混乱していたあかねも徐々に落ちつきを取り戻し、顔に笑顔が浮かぶ様になっていった。
 俺は俺で、放課後になると決まってあかねのところに通い詰めた。ただ、なんだか照れ臭いのと俺が記憶を無くす原因になったと思っていたことも相俟って、なかなか素直に病室に入ることはできなかった。
 そんな俺を天道家の長女かすみさんはよく分っていて、俺が来る時間になるとわざと病室の扉を開け放ち、俺の姿を見つけるとタイミングよく迎え入れてくれるのが常だった。
 でも、昼過ぎの病室は誰彼があかねを見舞いに来たので、決して二人きりで取り残されることはなかった。クラスの連中や近所の知り合いなど入れ替わり立ち代わり入ってくる。如何に彼女が皆から慕われているのか、俺にもよく分る。
 記憶をなくした当時のことを憶えていなくても、あかねに一言侘びを入れたいと思っていたが、なかなかその機会は得られず、俺なりに惨澹(さんたん)としていたのではあるが。
 あかねは記憶がある部分でふっつりと途切れているようで、自分の身に振りかかった災難すらよく飲み込めていないよ様子だった。そう、ベットの上にはいつもの勝気なあかねではなく、別人格のあかねが座っていた。

 その日は夕方近くなると、部活を終えた九能先輩が手にいっぱい花束を抱えてなびきと一緒に現れた。
「おお、天道あかね。来てやったぞ。」
 相変わらず居丈高な野郎だ。
 あかねは九能の顔すらも憶えていないらしく、ベットで軽くお辞儀をして微笑んだ。
・・・なんで、九能なんかにそんな極上の笑顔を見せるんだよ・・・
 俺はあまりいい気持ちはしなかった。だって、いつもなら思いきり嫌な顔をするか引き攣り笑顔しか向けない九能に可愛い顔をはなむけるなんて。
「天道あかね、記憶がなくなったというのは本当か?」
「は、はい・・・あの・・・あなたは?」
「おお。天道あかね。可愛そうに。未来の旦那さまの顔まで忘れたのか・・・哀れな。」
 九能はあかねににじり寄る。
 俺はいつでも拳を振り上げられるように握り締めていた。
・・・冗談じゃねえ。未来の旦那はおめえなんかじゃなくて俺だろうが・・・
 あかねは九能の気迫に飲まれて
「あの・・・でも、私・・・。」
と困り切っている。
「よいのだ。過去など二人の間には必要ない。さあ、新しい愛の歴史を切り開こうではないか。」
 九能はそう言って、あかねに抱きつこうと飛びかかった。

どかっ!ばきっ!

 次の瞬間、九能はあかねのカウンターパンチを食らっていた。俺は握り締めた拳をそのままに、あかねの見事なパンチにあっけを取られた。あかねの眠っている格闘家の本能が反射的に働いて九能を排除する行為へと導いたのだろう。
 記憶を失っても、きっとキライな物はキライなのだろう。
「うっ。愛とはかくも痛いものなのか・・・。」
 九能はそのまま病室の床に沈んで行った。
「あちゃーっ。九能ちゃん。記憶を無くしたあかねにまでのされちゃうなんて、情けないわね・・・。」
 なびきが苦笑いしながら倒れた九能を見ていた。
 当のあかねは自分の行為に驚いて振り上げた右手を見つめていた。
「あ、あの。あたし・・・。」
「ああ、九能ちゃんなら平気よ。いつものことだからこんなことくらいでは・・・。」
「めげないぞ、天道あかね。」
 なびきの後を受けて九能がむっくりと起き上がった。シツコイ奴だ。
「そんなに照れるなんて、可愛いではないか!ささ、今一度熱い抱擁を!」
 白い歯を輝かせながら九能が再びあかねに襲いかかった。
「いやあーっ!!」
 しかし、今度のあかねのパンチはさっきのと比ではないくらいすざましかった。
 病室の窓から九能は放り出され、空高く飛ばされて行った・・・。
「あーあ。九能ちゃん、行っちゃったか・・・。」
 なびきは手を振りかざして、言い放つ。
 これで暫らくあの厄介者は帰って来れまい。

 安堵している所へ、見知らぬ風林館の詰襟姿の男が一人ドアの外に立っているのが見えた。
 細いしたり目に高い鼻、少し長めに靡く黒い髪。耳には金色のピアスをしていた。
「あの、天道あかねさんの病室はこちらですか?」
 確かに風林館高校の詰襟を着付けてはいたが、その男に全く見覚えがなかった。
「え、ああ。ああ。そうですけど・・・。」
 なびきが狐に摘まれたように言った。おそらく、情報通のなびきもそいつの顔を知らなかったのだろう。
・・・何者だ?こいつ・・・
 俺は男に尋常ならぬ警戒心を持った。俺の格闘家としての直感がその男の放つ気に過剰に反応を示したのだ。
 武道の達人のこの俺が、そいつが病室の戸口に立った気配すら読み取れなかった。
「突然、入院されたと聞いて、お見舞いに・・・あの、これ、お花です。よかったら病室にでも飾って下さい。」
「ありがとう・・・あなたは?」
 あかねはやはり記憶がないのか、相変わらずぼんやりと返答する。
「あなたのファンですよ。よかった、思ったよりお元気そうで。いえ、今日はご挨拶に伺っただけですから。また来ます。お大事に・・・。」
 そう言って男は会釈をすると病室を出た。
 出際に俺に、ブキミに微笑みながら
「あかねさんはわたくしが頂きます・・・いずれまた・・・乱馬さん。」
 耳元で囁きやがった。
「な・・・?」
 突然の挑発に、俺は何かを言おうと試みたが、そいつは不敵な笑みを浮かべたまま、悠々と病室から去って行った。
 なびきにはそいつの言葉が聞こえなかったらしく、
「いい男ねえ・・・誰かしら。」
としきりに首を捻っていた。

 後に残されたあかねは、そいつから差し入れられた深紅の薔薇を愛でるように撫でていた。
 俺は得も言われぬ不安が心に広がって行くのを押さえることが出来なかった。


つづく

散々悩んだ揚句、乱馬の一人称で書き出すことにしました・・・

題名の「まほろば」は「まほら」又は「まほろま」と同じで、「優れたよい場所・国」という意味の古語です。
「大和は国のまほろば」(日本書記・景行記)とあるそれです。
これからもご察しのとおり、「日本神話」を底辺に展開していく予定です。

長編冒険譚になる予定です・・・気長にお付き合いください。




(c)2003 Ichinose Keiko