あかね風邪をひく・・・その1
一
冬の朝は寝床から這い出るのがちょっと辛い。
古びた木造の家屋ならなおさらだ。しんしんと冷気が降りてくる。
頭上の目覚まし時計を手探りで止めながら、あかねはふーっと息を吐いた。
いつもなら、布団からすぐにでも跳ね起きて、着替えを済ましロードワークへと朝の光の中に駆け込んで行くのだが、今日は身体を起こす気になれなかった。
「風邪、ひいちゃったかな…」
熱や咳といった具体的な症状はなかったのだが、何となく身体がだるい。微かだが咽喉の奥がいがらっぽくって、唾を飲み込むと少し痛んだ。
「今日は朝稽古、辞めよう!」
あかねはそう決心すると、頭から蒲団を被った。
うつらうつら。
浅い眠りに見を任せていると、いきなり枕元で声がした。
「おいっ、あかねっ!いつまで寝てんだよ。こいつ、朝稽古サボりやがったな!」
居候の乱馬である。
「うーん…。」
あかねが眠りから呼び戻されたのと、掛け蒲団を引っ剥がされたのは同時であった。
「な、なにすんのよーっ。」
あかねは、平手打ちを一発、乱馬に食らわせた。
「いってー!折角、人が親切におこしに来てやったのに、何だよっ。」
乱馬は打たれた頬を押さえながら言った。
「バカっ!レディーの部屋に入って来て、いきなり蒲団を剥ぐなんて、何様のつもりよっ。」
「誰がレディーだ。笑わせんな!寸胴女。」
「なんですってぇー?」
断っておくが、この二人の口喧嘩はここ天道家のありふれた日常風景だ。喧嘩するほど仲がいい…そんな二人だった。
「二人とも、早くしないと朝ご飯食べる時間なくなっちゃうわよ。」
開け放たれたあかねの部屋の扉の向こうで、制服姿のなびきが無表情で言った。
「いっけない〜もうこんな時間っ!乱馬さっさと出てってよね!」
あかねは勢い良くベットから起き上がると大急ぎで身支度を整えた。
階下に降りると既に朝食が食卓に並んでいた。
「あら、あかねちゃん、今日は朝稽古しなかったの?」
エプロン姿のかすみが茶碗にご飯をつぎながら訊いた。
「目覚し掛けそびれて寝坊しちゃった。」
あかねは体調不良を長姉に心配させまいと、そう答えてペロッと舌を出した。
「たくー。俺がサボタージュした日にゃ、頭から水ぶっ掛けて起こすくせによー。」
隣で乱馬がぶうたれる。
「あんたの場合、それくらいしなきゃ起きないじゃない。」
茶碗を受け取りながらあかねが口を尖らせる。
「あんたたち、ホントに好きねえ。でも、さっさと食べないと遅刻するわよ。」
なびきの老婆心。
これも、いつもの朝の風景。
違うといえば、あかねに殆ど食欲がなかったこと。
「おい、、早く食っちわねえと遅刻すっぞ!」
なかなか箸が進まないあかねを見かねて、隣から乱馬が口を挟む。
「ゴメン、今朝、稽古サボっちゃったから、あんまりお腹すいてないの。ご馳走さま。」
あかねは箸を置いた。
「柄になく、ダイエットでもおっぱじめたか?寸胴女がなにやっても無駄だと思うけどな…。」
それには答えず、あかねは立ちあがりザマに乱馬の暴言に肘鉄を一つ食らわせてやった。
食事の後、身支度をそこそこに鞄を持って、あかねと乱馬はいつものように、学校に向かって慌しく天道家を駆け出した。
別に申し合わせた訳ではないが、この二人はいつも一緒に登校している。
「あのさ〜。」
風を切りながら乱馬が話し掛けてきた。
「おめえも、助っ人、頼まれたんだろ?バスケ部の。」
「うん、今日の午後ね。乱馬も出るの?」
「まあな。」
「ふうん…。女子の方?」
「あほっ、男子に決まってるだろ。昼飯、一週間分で折り合いつけたんだ。」
このあたりがいかにも乱馬らしい。
「おめえさあ〜。」
何かを言い掛けて乱馬は言葉を止めた。
「なあに?」
じっとあかねの顔を覗き込んだ乱馬は
「まあ、いいや。」
そう言って塀の上にひょいと乗ってしまった。
「なによ〜気持ち悪いわね…。」
暫らく無言だった乱馬は、
「無理すんナよ。」
そう塀の上から言葉を投げかけた。でも、ちょうど傍らを通り過ぎて行った軽自動車の轟音であかねの耳元には届かなかった。
二
定時すれすれに、校門を駆け抜け、二人は教室に入った。
2年F組。
同じ学年の同じクラス。席まで隣同士。腐れ縁とでも言うのかもしれない。
授業中、いつになくあかねはぼんやりとしていた。
案外、熱が出始めていたのかもしれない。
今日は、土曜日。
勿論、普段は半ドンだが、今日は午後にバスケットボール部の対外試合がある。
あかねは決まった部活に所属していた訳ではないが、抜群の運動神経の持ち主を周りが放っておく訳がない。いろんな運動部から助っ人を頼まれるのだ。
また、お人好しの彼女は頼まれるとイヤとは言えない性分だった。
…今日一日頑張れば、明日は日曜日。お休みだからなんとかなるわね。
あかねは黒板を見つめながらそう自分に言い聞かせていた。
今日の試合も、前からの約束事だったから、無下に断わるワケにはいかない。
あかねも隣では、やはり試合に借り出されることが多い、並外れた運動神経の持ち主、早乙女乱馬が堂々と机に突っ伏して惰眠を貪っていた。
冬の日溜りの中で気持ち良さそうに寝息をたてている。
いつもなら授業中、ヤバそうになると、横からあかねが突付いて叩き起こしてやるのだが、今日は起こさなかった。いや、ぼんやりしていて起こせなかったと言った方がしっくりくるかもしれない。
「こら、早乙女っ、次の問題解いてみろっ!」
手馴れたもので、数学の教師がチョークを乱馬の頭に命中させて怒鳴った。
「いてっ。」
小さな声を上げて乱馬は起き上がった。
チラッと横目であかねを伺うと、彼女は一向にお構いなしでぼんやり頬杖をついていた。
「早く、前へ出て来いっ早乙女乱馬っ!」
先生の激が大きくなる。
しぶしぶ乱馬は檀上に上がった。が、当然、すらすら解けたものではない。
先生に散々イヤミとお小言と追加の宿題まで戴いてしまった乱馬だった。
「まったくー、ひでぇ目に合ったぜ!…くおら、あかね。何でちゃんと起こすか、ノート見せてくれるかしてくんなかったんだよ。」
終業後、乱馬はあかねに苦情を言った。
「帰ったら、数学の宿題、一緒にやるか、ノート写させてくれよなっ!」
数学教師にこってりイヤミを言われ他人の倍宿題を貰ってしまった乱馬はぶつくさ呟いている。
「授業中、寝ちゃうあんたがいけないんでしょっ!人のせいにしないでよね。」
「いつもは起こして、ノート見せてくれるじゃねえか。」
「あんたねえ、あたしをあてにしてるの?」
「いいだろー、あてにしたって…それくらい。…許婚なんだから。」
語尾は少し小さくなったが乱馬はぶつぶつ言っていた。
「あてにされても迷惑よっ。」
あかねは言い捨てた。
「ちぇっ、少しくらい頼らせてくれたっていいだろ?いつも心配かけるクセに…たく、可愛くネエな。」
乱馬は不機嫌そうにそう言葉にすると、何処かへ行ってしまった。
大方、昼ご飯を調達しに購買部にでも行ったのだろう。
あかねは昼ご飯も食べる気がしなかった。
今日はかすみお姉ちゃんお手製の弁当は持参していなかった。それに、わざわざ購買部に足を運ぶ気にもなれなかったのだ。
半ドンの土曜日の教室はがらんとして誰もいなくなっていた。
何をするわけでもなく、ぼんやりと机に座っていると、トンと目の前で音がした。
顔を上げると親友のゆかと購買部の紙袋があった。
「はい、あかね。」
ゆかが口を開いた。かすかに笑っている。
「何?これ。」
置かれた紙袋を訝しげにあかねが問い返すと、
「お昼ご飯の差し入れだって。」
「えっ?」
「さっき、購買部で会った早乙女君から預かったのよ。」
くくくっとゆかが意味深に笑っている。
「乱馬が?どうして。」
ことの仔細が飲み込めないあかねはゆかに訊き返す。
「さあ、知らないけど、あかねの分だから渡してくれって。」
「……。」
「バスケ部の試合に出るんでしょ?あかね。ちゃんとお昼を食べないと動けないぞって言っとけって。いいな、あかねは。あんな優しい許婚がいて。」
ゆかがまたくくっと笑った。
「ベ、別に…あたしと乱馬は…。」
あかねは紅潮してゆく自分がわかった。
「じゃあね、私も後で応援に行くから、しっかり食べて、試合頑張りなさいよね。」
ゆかはウインクしながらそう言うと、教室から出ていった。
あかねの手元には購買部の袋がしっかりと残されていた。
袋を開けると、あんまん二つに暖かいウーロン茶の缶。
「乱馬ったら…。」
体調の悪いあかねには手頃な食事だったかもしれない。
缶のあかねは暖かさであかねは心の中まで満たされて行くのを感じていた。