◆石の上にも


一、

 紅葉が綺麗なシーズンになってきた。
 山は遠いが、近くの公園や街路樹は黄色や赤色に仄(ほの)かに色づき始める。朝晩の冷え込みも厳しくなりはじめ、夕闇もすぐに迫ってくる、釣瓶落し。
 
 あかねはふっと縁側から庭先を眺めて溜息を吐いた。
 進路指導。
 彼女の通う高校でも、卒業後の進路について、三者懇談が始まっていた。
 大学などへ進学する者、就職する者、手に職をつけようと思う者。皆一様に己の将来について真剣に考え始める季節の到来であった。

 あかねも昨日、父と共に進路指導を受けてきた。
 希望は短大進学。
「スポーツ推薦なら結構有名な四大からも話は来ているんですが…。」
 進路指導の先生は不思議そうに彼女を見詰める。
「いいんです。やっぱり、自分のやりたいことをやろうと私は思っています。勿論、武道を辞めるつもりはありませんが…。」
 あかねはきっぱりと言い放った。
「親としても娘の意思は尊重したいですからなあ…。」
 早雲はそう言って、首を縦に頷いた。
「そうですね…。最終的には本人の意思ということになってきますから…。早乙女くんといい、天道さんといい…いいところから推薦が来ているのに。勿体無いですな…。でも、そう決めたのなら、この冬もしっかりと勉強してくださいよ。志望校に合格できるように。」
 先生はそう言うとあかねを見てにっこりと笑った。

 早乙女くん。そう、乱馬のことだ。
 父たちの話によれば、彼も体育大学系からの誘いが数多にあったそうだ。この前の武道大会の勇士がそこかしこで話題になっているという。
 確かにあの戦いは壮絶だった。あかねの戦いぶりも準決勝不戦敗とはいえ立派なものだったから、彼女にもちらほらと推薦の話が来ていたくらいだ。乱馬の格違いの闘いは、昨今の武道ブームが手伝って「うちの柔道部へ」「空手部へ」「レスリング部へ」「拳闘部へ」などと熱いラブコールが鳴り響く。
 でも、乱馬の答えは全て「NO(ノー)」であった。
 勿体無いとそこここで言われたらしいが「行きたくねえもんは行きたくねえんだよ…。」と、一切、取り合わなかったらしい。
「だったらどうするの?」
 あかねが聞いても
「まだ決めてねえ…。」
 素っ気ない返事。
「もう十一月なのにそれはないわよ。」
 思わずそう切り出すと、
「おめえは自分のことをしっかり考えて勉強してればいいんだよ!」
 と、あしらわれた。
 今日もそんな調子だった。
 兎に角、俺のことはいいから自分のことだけ考えていろ…という口調に、あかねのテンションも上がりっぱなし。
 言い返そうとしたら
「ロードワークへ行く!」
 ぶすっと吐き捨てて乱馬は出て行った。

 実際、乱馬は何を考えているのか、あかねには解(げ)せないことが多すぎた。

「あかねちゃん…。なんだか浮かない顔してるわね…。乱馬と喧嘩でもしたのかしら。」
 のどかが声を掛けてきた。
「いえ…。別に…。」
 あかねはにこっと微笑を返す。きっとさっきの場面を見られていたのだろう。
「なら良いんだけれどねね…。」
 そう言いながらのどかは、縁側から庭先に下りた。
「あ、あたしも手伝います。」
 あかねはそう言うと、ツッカケを履いてのどかの後を追う。
 洗濯物を取り込むようだ。
 風はまだそう冷たくはなかったが、それでも木枯らしの吹く予感を孕んでいた。
「厚物が乾かなくなってきたわね…。外に干しても、どこか湿っぽいわ。」
 のどかは洗濯バサミを外しながら籠へと入れてゆく。あかねもそれに習って、洗濯物を外す。家族も多いから洗濯物を取り込むのも結構な作業になる。籠がいっぱいになると、ひとまず縁側から入って茶の間へと広げる。そしてまた空になった籠を持ってきて次を取り込む。
 単純作業の繰り返し。それが主婦業なのである。
 一通り取り終えると、洗濯バサミやハンガーを納戸に仕舞い、縁側へと引き上げる。これが手順だった。
 それから畳一面に広げられた洗濯物を一つ一つ丁寧に畳んでゆく。下着、靴下、厚物、タオル、ズボン、ハンカチと小分けして進める。二人は寡黙に作業をこなした。
 タンスごとに仕分けして、畳み終えると、ふっと笑みを洩らすのどか。
「さっきの続きだけど…。あかねちゃん、最近浮かない顔をしてるわね…。」
「え?」
「ふふ。私にはわかるわよ。大方、乱馬のこと考えてくれているんでしょ?」
 あかねは俯き加減に黙り込んだ。正確には乱馬のことと、そしてそれに絡む自分自身のことを思い悩んでいたと言った方がいいだろう。
「乱馬…あの子もね、きっといろいろ考えていると思うのよ…。」
「でしょうか?」
「これからどうしたら良いのか。どの道を進むべきなのか…。とっくに本心は決まっているのかもしれないけれど、でも、まだどこかで迷っているのね、きっと…。」
 のどかはゆっくりと言葉を継ぐ。
「だって、これから先は、決められたレールの上を行くのではなく、自分で道を切り開かなきゃいけないんですもの。無差別格闘流のこと、将来のこと、そしてあなたのこと…。男としての一本立ちを果たさなければ、何も始まらない。あの子も分かってるのね。だから、試行錯誤しているんでしょう。」
 枯葉がひらりと落ちてきた庭先を、あかねは黙って見詰めた。
「男の人はね、いろいろ思い悩みながら、器も大きくなるのよ。玄馬さんもそうだったわ。」
 のどかは縁側の引き戸越しに青い空を見上げた。
「おじさまも?」
 あかねはのどかの口から乱馬の父、玄馬の名前が漏れたのを聞いて、振り返った。
「ええ…。まだ物心もつかない乱馬を連れて家を出る前、そうね、初めて早雲さんと「許婚」の件を決めてきた頃からだったかしらね…。あの人が物思いに耽(ふけ)っていたのは。」
 遠い目をしてのどかは昔のことをぽつぽつと話し始めた。
「ある日、修業場で再会した旧友の早雲さんにぱったりと出会ったんですって。一献、交わしなっがら、旧恩を温めるうちに、互いに年頃の似た異性の子供がいると分かったんだそうよ。早雲さんが「女の子しか出来ない」とちらっと言ったのを受けて「ならば、うちの乱馬と娶(めあわ)せぬか…。」とあの人が酔った勢いでポロっと口にしたんですって…。」
 初めて耳にする天道家と早乙女家の「許婚」のきっかけ話だ。あかねはぐんっとのどかに引っ張られるように話に聞き入った。
「あの人もあなたのお父さんも、同じ流儀であること、恐らく同じ志を受け継ぐだろう親友同士の子供等に、自分たちが流した涙や汗を全て継承したいと切に願ったそうなのよ。最初は酔って軽い気持ちで言い出した「許婚」。でも、酔いが醒めて後で良く考えたとき、大変なことを引き受けたのだとあの人は思ったようなの。二つの無差別格闘流をしっかりと受け継ぐ器の息子に育てなければならない。そうでないと約束した早雲さんに合わせる顔がない。そう考えて当然よね。一度に二つの流派を継ぐことになるんですもの。だから、あの人は必死で考えたみたいなの。乱馬を立派な無差別格闘流の後継者に育てるためにしなければならないことを…。あの人が考えあぐねて出した結論が、母親との決別だったのよ…。」
 あかねは黙した。
 そう、乱馬は物心がつかない頃に、父親の意志で母親と引き裂かれたのだ。母親と別れて放浪しながら修業を続けることに。引き裂く方も引き裂かれる方も、並大抵の心理ではできないことだ。
「おばさま…。よく承知されましたよね…。」
 あかねはのどかを見上げて言った。世間一般に言えば母親と引き裂いて放浪しながら父が息子を育て上げる。無茶苦茶な話である。
「勿論、苦しんできたわ。でも、信じていたからこそ承知できたのね。あの人のわがままを…。」
 のどかは幸せそうに微笑んだ。それを見てあかねは、はっとした。そんな無謀を許せる、のどか。なんと意志が強い人なのだろう。そう思わずには居られなかった。
「最初の三年が一番辛かったわ。」
 どかは笑いながらそう答えた。
「三年、ですか?」
「ええ…。諺にもあるでしょう。『石の上にも三年』って。石のような堅固で冷たいものの上にでも三年も座っていれば暖まってくるという喩えで「三年も我慢すれば道も開ける」って。その言葉どおりだったかもしれないわね。最初の三年を耐えてみようって思ったの。三年耐えられればきっと何かが見えるって。」
「それでおばさま、どうだったんです?」
 あかねは身を乗り出すようにのどかを見た。
「三年、耐えられない自分なら武道家の妻は勤まらない、なんてね。意地でも耐えてみせるって。三年たった或る日、やっと玄馬さんから葉書が一枚来たわ。お金の無心もあったと記憶しているけれど。それからちょこちょこ消息をくれるようになっていて…。」
「おじさまが?」
「ええ…。夫婦だって思ったわ。同じように「三年は連絡しないで我慢する」って思ったみたい。」
 のどかは嬉しそうに笑った。
「三年間我慢して連絡を絶つ。そしてそれを我慢する。」
 なんという強い絆なのだろう。
 改めてあかねは感動を覚えていた。
「流石に、二年半ほど前、急に連絡が途絶えてからは、私も急に不安になって、乱馬を求めてあかねちゃんたちにも随分迷惑かけてしまったけれどね…。」
 ふっとのどかは笑った、そして、続ける。
「でも…「石の上にも三年」その言葉どおりだと今は思うの。これは私の考えだけど「石」という字には「意志」、すなわち意識の意と志すの「意志」という言葉にも置き換えられると思うのよ。一種の掛詞ね。「意志」が強くなければ三年という月日を耐えることもできなかったでしょうから。」
「強い意志かあ…。」
 あかねは言葉を味わうように繰り返した。

  と、ギイイッと、門戸が開く音がした。

「あら…。乱馬が帰って来たようね。さて、私は洗濯物を片してくるわ。」
 そう言うとのどかは洗濯物を抱えて茶の間を出て行った。


二、

 のどかが立ち上がると、時を待たずして庭先で人の気配がした。
 やっぱり乱馬だった。

 ロードワークから帰って来たようだ。
 門から回って庭に直接入ってきた。そして何気に流れるような膝蹴りを、庭先に据えてあるわら人形に一発食らわせると、ふうっと言って汗を拭った。懸命に駆けて来たのだろう。肩で息をしている。

「汗、ちゃんと拭かないと身体が冷えるわよ…。」

 そう縁側から声を掛けながら、畳んだばかりのタオルを差し出した。
「サンキュー。気が利くじゃねえか。」
「もう…。」
 あかねからタオルを受け取ると乱馬は流れる汗を拭う。
「守備はどう?」
「まあまあかな…。おめえもたまには身体動かしとかねえと、なまって受験戦争に勝ち残れねえぞ…。」
「大きなお世話よっ!!」
 まだ喧嘩がし足りないとでもいうのだろうか。そんな言葉をかけてきた。
 乱馬はひとしきり汗を拭うと縁側へ歩み寄る。そしてあかねの傍にどっかと腰を下ろした。まだ少し息は荒い。
「ねえ、今日もバイト?」
「ああ…。夕方からな。」
「そっか…。頑張ってるんだ、乱馬も。」
 あかねはそう言うと言葉を止めた。ずっと最近気になっている乱馬の状況。何故にこの許婚がこの大切な時期に躍起になってアルバイトに明け暮れているのか、あかねには分からなかった。だが、いつも理由が聞けなかった。理由を知るのが怖くもあったからだ。
「石の上にも三年かあ…。」
 代わりにそんな言葉が無意識に口から流れた。さっきののどかの話を思い出したからだ。愛するがゆえに、耐えなければならないこともあるのだ。そのためには強い意志を持つ必要がある。のどかがあかねに教示してくれた深い話だ。
「あん?石の上にも三年?ことわざか?」
 乱馬はきょとんと聞き返した。
「あ…。何でもないわ。」
 あかねは慌てて言葉を濁した。
「石の上にも三年かあ…。何か、意味深な言葉だな。」
 乱馬はあかねの口にした言葉を反芻する。何か意図めいたものを、言葉から感じたのだろう。そのまま黙ってしまった。
「三年。短いようで長いのよね…。三年後、あたしたちはどうなってるのかしら…。」
 あかねはそう言いってしまうと、ほっと息を吐き出す。
「何も変わってないのかな…。あたしは…。」
 自戒気味に吐き出すと、力なく笑って見せた。
 乱馬は暫く何も発せずにいた。そしてふつっと言葉を投げてきた。
「なら、聞くが、三年前はどうだった?」
「三年前?」
「ああ…。おめえの三年前はどんなだった?何してた?どんなこと考えてた?」
 乱馬は真剣に聞き返してきた。
「三年前ねえ…。やっぱり、進路に悩んでたかな…。何処の高校を受けようかなって。」
 あかねはゆっくりと思い出しながら言った。三年前の自分。中学三年生のころの自分。
「で、進路に悩んだ末、受けたのが風林館高校だったのか?おめえは…。じゃあなんで風林館高校を選んだんだ?」
「んと…それは…。かすみお姉ちゃんもなびきお姉ちゃんも通っていた学校だから…。いいかなって思って…。それで決めたのよね…。」
「安直(あんちょく)だな。」
 くすっと乱馬は笑う。
「そうかも知れないわね。そんなに真剣に選んだわけでもないし…。ましてや己の確たる将来なんて、何も描いていなかったわ。十五やそこらの小娘だったんですもの…。」
 乱馬は掌を後ろに投げ出してついた。そして突然ぽっと吐き出した。
「三年前はさあ…出会ってなかったんだな…。俺たち…。」
 そうだ。確かに三年前は出会っていなかった。許婚の存在すら知らないで居た。
「そうね…。三年前はあんたの存在すら知らなかったわ。」
 あかねも同調するように言った。

 二人の関係。三年前は皆無だった。
 それから三年経った今では傍に居て当たり前の存在に。
 じゃあ、これから三年後は。
 別離してしまっているのか、それとも…。

 あかねが考えを巡らせかけたとき、ふっと乱馬の手のぬくもりを、傍らに感じた。すっと差し出された手で、握られたのだ。

「三年後…。あかねの傍に帰ってくる…。」

 乱馬はそう囁いた。そして抱き寄せるあかねの肩。
「え?」
 言葉の真意がわからずにあかねは彼を見詰めた。

「三年…。そのくらいの期間が欲しい…。俺の意志を固めるにはそのくらいの修行時間が必要なんだ…。」
 それだけ言うと乱馬はそっと触れていない手をあかねの左頬に当てた。
 軽く自分の方へとあかねを向けて見詰める。
 あかねに降りて来るダークグレイの真摯な瞳。
「ちゃんと決めたらおまえに真っ先に話すから…。あかね。」
 そう囁くように言葉を継ぐと、あかねの右頬へと軽く唇を触れた。
「乱馬?」
 きょとんと見詰めるあかねに乱馬は一つ微笑みを返すと、立ち上がった。そして何事も無かったように庭先へと降りていった。

「乱馬…。」
 触れた唇の感触があかねの頬に残る。
 今のは何だったのか。何のつもりだったのか…。
 ただわかること。それは、乱馬が世界へ羽ばたきたがっていること。広い空の下を己の力で。
『石の上にも三年…』
 のどかが投げたことばだけが、鮮やかに蘇る。
 立ち去る許婚の背中を追いながら、淡いキスの感触が残る右頬へと、そっと、手を当てた。








一之瀬的戯言
 人生の分岐点。
 「石」の解釈は自説です。
 小学校三年生の頃「石の上にも三年生」と勘違いしてこの諺を言っていた息子も乱馬たちの年齢を越えてしまいました。
 
 考え悩み乗り越えながら彼なりに成長して大人になっていって欲しいと思います。(親とは見守る存在なのだなと最近凄く思います…。)
 人間には己の夢を自ずから打ち砕かねばならないこともあります。でも、努力したことや経験したことは決して無にはならないでしょう。私も思春期にはそれなりに悩みを抱えましたが、その苦悩があったからこそ現在があるような気がします。当時の悩み。恋も進路も全て己にとっては重く苦しかったような…。今振り返れば些細なことが多くても。
 蒼い時代を乗り越えて、出会った人。それから現在の私と。連綿と連なってます。
 分岐点に立っている皆さま。いろいろと考えることや悩みもあるでしょうが、目標に向かって努力してくださいね。たまには思い切り力を抜くことも忘れずに…。
 そして、勿論、あなたの分岐点を見守る人がいることも。